[永遠の一瞬]


(……ん?……なんだろ?)
 レアナは胸元に違和感を感じて目を覚ました。別に痛いわけではなく、せいぜいくすぐったいという程度なのだが、違和感には違いなかった。
(なんか重いし……え!?)
 仰向けになったまま、首を持ちあげたレアナは、思わず小さく声をあげてしまった。そこには、いまレアナが寝ているベッドの主であり、彼女の隣に寝ているはずのバスターが、レアナの胸に頭をしっかりと載せていた。
 おまけにレアナはパジャマのボタンをきちんと留めていなかったので、その合わせの隙間から、バスターの髪の毛や寝息が、余計にレアナの豊かな胸を刺激していた。枕元に点したままだったサイドランプのほのかな明かりしか部屋の中に光はなかったが、バスターの赤毛と彼のうつ伏せの寝顔を照らし出すには充分だった。
「……え、えっと……バスター?」
 レアナは小さな声でバスターの名前を呼んでみたが、バスターはすっかり熟睡しているらしく、起きる気配などまるでなかった。
(どうしよう……)
 少しのあいだ逡巡したが、結局、レアナはバスターを起こすのをやめた。確かにくすぐったくはあるが不快ということは全然なかったし、何よりバスターがあまりにも気持ちよさそうに眠っていたからだった。
「もう……」
 そういえば前にもこんなことあったっけ、そう思い出してくすっと笑い、レアナはそっと手を伸ばして、バスターの髪に触れた。男性にしては細めで光沢のある赤い髪の毛は、絡むこともなくさらさらと指の間からこぼれ落ちた。その毛先がまた更にレアナの胸元を刺激し、レアナは剥き出しの肌をバスターに触れられる感覚を思い出して赤面した。
 髪を触られた当のバスターはと言うと気付く様子もなく、眠ったままだった。昨日は総出でTETRAの定期メンテナンス作業に明け暮れたんだから無理もないと、レアナはバスターの寝顔を眺めて思った。赤毛を撫でる自分の手の平に直に、あるいはパジャマごしで胸に伝わってくるバスターの体温と鼓動を意識しているうちに、レアナの脳裏に、遠い日の出来事が蘇って来た。

 いつ頃だったのか詳しくは分からない。ただレアナが軍の施設に保護された後であり、まだ子供だった頃のバスターと出会う前のことだとは覚えているので、多分、レアナが7〜8歳の頃のことだろう。そんな時分に、レアナは一匹のネコを見つけた。
 そのネコは首輪や毛皮の汚れ、それにやつれっぷりを見るに、長いことさまよっていた迷いネコであるらしかった。ネコはかなり人に慣れているようで、レアナが抱いてもツメひとつ立てなかった。誰か施設の職員に知らせようかとレアナは一瞬考えたが、すぐに頭を振って止めた。幼いなりに、ここがこういう生き物を自由に飼える場所ではないとレアナは分かっていたのだ。
 だが弱っているネコを放す気にもなれず、レアナは結局、こっそりと自室にネコを持ち込むことにした。ミルクを飲ませ、ベッドの中でそっと抱きしめると、ネコは安心したように目を閉じた。その様子に安心したレアナも、初めて抱く生き物の温かさと寝息を心地よく感じながら眠りについた。だが次の日の朝、ネコは冷たくなっていた。

 何がいけなかったのかは今でもよく分からない。ただ、それがレアナが初めて直接知った「死」だった。レアナは泣きじゃくり、遺骸は事の顛末を知った職員の手で処分された。レアナは幼いころも今も泣き虫な一面があるが、それを差し引いても、傍から見ても可哀相に思えるほどに声を上げて猛烈にレアナは泣いた。レアナがそこまで涙を流したのは、両親が行方不明になったとき以来だった。それほどに強烈な出来事だったのに、レアナは成長するにつれて、その過去を忘れていたが――いや、あまりに悲しかったので忘れたかったからのかもしれない――バスターと毎夜を共に過ごすこのベッドの上で、レアナは理由は分からなかったがその記憶をいつの間にか思い出していた。

 あのとき、あんなにも泣いたのは、ネコの死が悲しかっただけでなく、両親が失踪した時のようにまた取り残されてひとりぼっちにされてしまった寂しさもあったのだろう。天井を見つめながら、レアナはそんなことを思ったが、不意に不安な気持ちになり、自分に体を預けているバスターのほうへ目をやった。
 バスターは先程と変わりなく、ぐっすりと眠り続けていた。レアナはその規則正しい呼吸音を耳にし、ホッと息をついた。バスターはあのネコではないのだし、そんな簡単にどうにかなってしまう存在ではないことはレアナにも分かりきっていたことだったが、頭でそう分かっていても、確かめなければ不安で仕方なかった。だからさっき漏れた、レアナの安堵は心の底からのものだった。
「バスター……」
 レアナは愛おしそうにバスターの名を呼び、もう一度、彼の赤い髪を撫でた。そして、バスターはちゃんとここにいる、自分はひとりではないのだということを確かめるかのように、彼の頬へも指を伸ばした。レアナの白く細い指がバスターの頬を何度か撫でた時、それがさすがにちょっとした刺激になったのか、バスターはうう……と声を漏らした。レアナは驚いて指を引っ込めようとしたが、すっと伸びてきたバスターのたくましい手が、レアナの細い手を握った。
「どうした……お前、泣いてるのか? 何かあったのか?」
 少し驚いた表情で自分にかけられたバスターの言葉に、レアナはハッとなり、自分の目元を指で触った。レアナ自身もまったく知らぬ間に潤みきっていた目から、涙が零れ落ちた。思い出してしまった悲しみからなのか、それともバスターのそばにいることに安心したからなのか、涙の理由はレアナ自身にもはかりかねていた。ともかくレアナは両手で慌てて目をこすって拭おうとしたが、涙はどうしても止まらなかった。
 見かねたバスターがベッド脇に落ちていた彼のパジャマの上衣を拾い上げ、タオル代わりにしてレアナの目を拭った。だがそれは決して乱暴なものではなく、むしろバスターの優しささえ感じられる行為だった。
「本当にどうしたんだ? ひょっとして……俺がお前の胸をまた枕にしちまっていたけど、もしかして俺も知らない内に乱暴に扱って辛い目に遭わせちまったか……?」
「う、ううん、ちがうよ。だって……」
「だって?」
「……それはうれしかったもん、ちょっとはずかしいし、くすぐったかったけど……」
 バスターは優しい笑みを浮かべると、レアナの肩を抱き寄せ、額と額をくっつけて呟いた。
「……嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」
「ね、バスター」
「ん?」
「バスターは……ちゃんとここにいるよね? あたしと同じこの場所に、いてくれるんだよね?」
 真剣なまなざしで問いかけるレアナの視線をまっすぐに捉えると、バスターはレアナの腰に腕を回し、彼女を強く抱き寄せた。
「前に俺がお前に言ったこと、覚えてるないか? 俺はお前と出会えてよかった……って。そんな大事なものを置いていったり、放っとくほずがないだろ?」
「……バスター」
 バスターの腕の中で抱きしめられるままになっていたレアナは、自らの両腕も伸ばし、バスターの首に絡ませた。それがレアナの答えだった。
「ありがとう……」
「礼なんかいらねえさ。それより、もう大丈夫か?」
「うん……だいじょうぶだよ」
「そうか。それなら良かった」
「バスター」
「なんだ?」
「バスター……ずっとこのままあたしを離さないでね……」
 バスターは黙って微笑んだ後、レアナの白い首筋に唇で触れた。ほんのりと赤い痕が、その場所に小さく残った。それはまるでレアナを離さないという約束に対するバスターの無言の誓いの証のようだった。

 二人は再びベッドに横たわっていたが、先刻までとの違いは、レアナがバスターの体に身を寄せ、彼女の頭を彼の腕に預けていることだった。レアナの柔らかく豊かな女性の胸と、バスターの鍛えられた男性の腕とでは随分な違いがあったが、レアナにとっては何よりも寝やすい枕に思えたし、規則正しく伝わってくるバスターの心音も心地よかった。トクントクンという規則正しいメロディを聴きながら、レアナはバスターと共に再び眠りに落ちていった。悲しみも寂しさも、もうどこにも零れてはいなかった。



あとがき


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