[愛しき此の時を]


 その日、レアナは朝を過ぎても床から起き上がれなかった。かなりの熱が出て体調を崩したせいだった。

 レアナ自身は特に無理をしていたつもりはなかった。そうでなくとも、地球に降りられなくなった2520年の災厄の日以降、孤立状態のTETRA内では重い病気や怪我は大きな問題となるのだから、クルーもそれぞれの体調管理には気を配っていた。
 だが、少々の辛いことは他者の前で見せようとしないのがレアナの性格の長所であり短所だった。そうやって少しづつ溜まっていた疲れに、レアナはほんの少しの油断をつかれてしまった。それに、パイロットとしての基礎的な身体能力は訓練で身についているものの、TETRA内の男性陣、特に同年代のバスターやガイには大元の体力でやはり負けてしまうのが、レアナにとっては残念な現実だった。
 幸い、熱が高いほかには病状は大したことはなく、クリエイタが処方した薬を服用し、今は深い眠りに就いていた。その眠りの中で、レアナの意識は遠い場所にあった。


 ここはどこなんだろう。

 ぽつんと立つレアナの周囲には白い霧がたちこめていた。辺りを見回しても何も見えない。分かることと言えば、ここがTETRAの中ではないらしいということだった。
『あたし、どうしてこんなところにいるの……』
 地球がああなった今、TETRAの外に出ることなど出来ないはずなのに。そう思ったレアナが疑問符を浮かべて首をかしげたとき、声が聞こえた。小さな子供の声だった。レアナが声の方向を向くと、霧の一部が晴れ、人影が浮かんでいた。大きな影がふたつ、小さな影がひとつ。その顔を見た瞬間、レアナは驚愕した声を上げていた。
「お……お父さん!? お母さん!?」
 レアナが見たのは、彼女の両親だった。行方不明になってからも、ずっと生きていると信じ続けていた両親。いま目の前に見える面ざしは、レアナの記憶に残っている10年以上前のままだった。二人は小さな子供と手を繋いで微笑んでいた。レアナはその子供が誰なのかと言うことにも気づいた。誰でもない、幼い日の彼女自身だった。
『小さかったときのあたし……? どうして……お父さんもお母さんもいっしょで……』
 そんなことを思ったとき、レアナの目線はふっと低くなった。不思議に思い、何気なしに手を見ると、その手は自分でも驚くほど小さかった。レアナの姿は、たったいま見たばかりの幼いものになっていた。
「え……!?」
 慌てて顔を上げると、両親のそばにいた幼いレアナは消えていた。その代わりに、父と母がレアナ自身に向かって笑いかけ、手を振っていた。こっちへおいで、そう声をかけているかのように。
「もしかして……そんな……でも……」
 レアナが両親と引き離された原因が幼い彼女にとって不可抗力同然のものであり、どうすることも出来ないものだったことは、もちろんレアナも分かっている。だがそれでも、レアナは自分の中に生まれた思いを否定できなかった。あそこにいる両親の元に行けば、もう一度やり直せる? 別れ別れにならず、ずっと親子一緒に暮らせたかもしれない、もうひとつの未来へ行ける? それが本当ならば……。

「クリエイタ、どうだ、レアナの具合は?」

 足を踏み出そうとしたレアナの脳裏に、不意に男性の声が響いた。レアナは聞きなじんだ、その声の主を思い出した……バスター……?

「レアナ、朝メシも食ってねえんだろ? 艦長も心配してたぜ」

「ネツハ ダイブ サガリマシタ。ヤスンデ ヒロウガ トレレバ ダイジョウブデショウ」

 続いてガイ、そしてクリエイタの声が聞こえた。バスター、ガイ、クリエイタ、艦長……それがきっかけだったかのように、レアナの中に一気に記憶が雪崩れこんできた。TETRAクルーたちと過ごした記憶。テンガイとの、ガイとの、クリエイタとの、そしてバスターとの思い出……それらがレアナの中を駆け巡り、彼女は一歩前に出そうとしていた片足の動きを止めた。
「こっちをえらんだら、今のあたしはどうなるの……? パイロットにならなかったかもしれないの……? じゃあ、みんなにも会えないままで……」

 ……あたしが知ってる「今」は……なくなっちゃうの……?

 そう呟いたきり、レアナは立ちつくした。自分の足元を見つめたまま、身じろぎひとつしなかった。そのまま時間が過ぎ去り、やがて、レアナは顔を上げた。霧の向こうに立つ両親のほうを向き、意を決した表情で口を開いた。
「……ごめんなさい。あたし、今ここにある未来を消せない……自分勝手だよね、お父さんとお母さんといっしょにいられる未来をえらべば、お父さんとお母さんを助けられるってことかもしれないのに……」
 そこでほんのわずかだけ言葉が途切れたものの、レアナは残りの言葉を絞り出すように、けれどはっきりと口にした。
「でも……バスターや、ガイや、艦長や、クリエイタ……みんなと会えた今の時間を捨てることができないの……ごめんなさい……」
 一息でそう言ったレアナの頬から雫がこぼれ落ちた。その涙を懸命に袖口で拭ったとき、レアナは自身の体が17歳のものに戻っていることに気がついた。目前の両親のほうへ目をやると、二人は穏やかに笑っていた。先刻のレアナの言葉を責めるような様子は微塵もなく、そのままその姿は透き通り、消えていった。最後まで優しいまなざしのまま。
「お父さん……お母さん……」


 レアナが目を開けると、見慣れた自室の天井が見えた。ベッドの傍らに目をやると、クリエイタが新しいアイスパックを用意しているところだった。レアナが声をかけようとしたとき、ちょうどクリエイタが顔を彼女のほうへ向けた。
「オヤ。オメザメデスネ」
「クリエイタ……? あたし、ずっとここに……いたんだよね?」
「エエ、ソウデスガ……ドウカシマシタカ?」
「そっか……そうだよね……」
 レアナは仰向けになり、額に拳をあてた。あれは夢だったのだ、何もかも……そう思ったとき、レアナはクリエイタに問うべきもうひとつの事柄を思い出し、身を起こした。
「クリエイタ? ここにバスターやガイもいたの?」
「ハイ。サキホド アナタノ ヨウスヲ ウカガイニ……オヤ ウワサヲスレバ……デスヨ」
 クリエイタが顔を向けたほうをレアナが見ると、両手にトレイを持ったバスターが扉を開けたところだった。レアナが目を覚ましていることに気づいたバスターは、トレイを運びながら声をかけた。
「レアナ? 起きてたのか?」
「う……うん」
「チョウドイマ オキタトコロデスヨ。バスター、アリガトウゴザイマス」
 クリエイタがバスターから受け取ったトレイには、保温ケースに入った飲み物と細かな具のスープがあった。
「ソロソロ アナタガ オキルカト オモッタノデ……バスターニ タノンダノデスヨ」
 クリエイタの説明を受けたレアナが目をやると、彼女が目を覚ましていて気づかれたのが照れくさかったのか、バスターは頭に手をやって少しバツが悪そうにしながらも、レアナに言葉をかけた。
「食欲は戻ったか? 食べられるのなら少しでも食べておいたほうがいいぜ」
 レアナはかろうじて頷きながらも目線を下に落とし、先ほどの光景を思い出していた。
「みんな、ここにいたんだ……じゃあ……」
 あのバスターやガイ、クリエイタの声は現実だったんだ、レアナは心の中でそう続けた。すべて夢の出来事だった。しかし、「過去をやり直せるかもしれない」という選択を突きつけられたとき、レアナはそこが夢の世界だとは思いもしなかった。一瞬とはいえ、本気でその道を選ぼうとしたのだ。両親を救えたかもしれない未来を。
 けれども、レアナは自分が現在いる世界を選んだ。人類が滅びようとし、悲惨に限りなく近い状況ではあっても、レアナにとってはまだ完全に絶望した世界ではないのだ。このTETRAの仲間が共にある限り。だからこそ、現実から遠く離れた場所であっても、バスター達の声が聞こえたのかもしれない。レアナを「今」に繋ぎ止めるために。彼女にとっての「今」を体現するものとして。
 そして夢であった以上、あの霧の中にいた両親の本当の思いは正直わからない。レアナの願望的なものがどうしても混じってしまうのだから。そうであっても、父母が最後まで笑っていてくれたことは、レアナの救いだった。レアナが選択にあたって抱いた悔恨がすべて消えたわけではないが、それ以上に、二人の最後の表情は、レアナに安堵の思いを与えてくれていたから。
「おい……どうしたんだ? レアナ」
 一人考え込んでいたレアナの様子をいぶかしく思ったバスターが近づき、彼女の肩に手を置いた。レアナは我に返り、一瞬驚いたものの、すぐに笑みを浮かべ、自分の肩に置かれたひとまわり大きなバスターの手に触れた。
「ううん、だいじょうぶだよ」
 そう答えてバスターとクリエイタの顔を順々に眺めた。
「自分で決めたんだもの……」
 レアナは小さく呟き、その先は心の中で続けた。
『もし今まで生きてきた時間をやり直せるとしても、今ここにつながる道を選ぶってことを……』
 そう自分自身の心を確認すると、レアナは傍らの二人へ話しかけた。
「ね、バスター、クリエイタ」
「ん? どうした?」
「あたしね、バスターと、クリエイタと、ガイと、艦長と……みんなが今ここにいてくれること、本当にうれしい……ありがとう」
 レアナはそう言うと、満点の笑顔でバスターの片手を彼女の両手で握り返した。バスターとクリエイタは呆気に取られた表情で顔を合わせたが、そのうちにバスターは口元を緩め、クリエイタはニコリと笑った。理由はよく分からないが、レアナの心からの明るい笑顔に、バスターもクリエイタもほだされていた。ガイとテンガイがこの場にいても、きっと同じように釣られて笑っていただろう。

 たとえ別の未来が存在出来て、それが幸福であったとしても。その傍に現在のこの時のレアナにとって大切な人々がいないのならば、もう別の可能性の未来を選ぶことは自分には出来ないのだと、レアナは悟ってしまった。たとえ今のこの自分の記憶も消えるとしても、記憶とともに今いるこの世界の時間を消す選択を、レアナは選べないのだから。
 それでも、それほど大きくなってしまった存在を改めて感じたことを、レアナは幸福だと思った。大切な人達がいることは、それと同じくらいの大事な思い出という貴石があるということだからと。



あとがき


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