[今はただ、その優しさを胸に]


 レアナは思いつめていた。衛星軌道上のTETRAに就寝時間が訪れ、ベッドに横になっても、寝返りを繰り返すばかりで、眠れずにいた。そのうちに柔らかな枕に顔をうずめ、じっと動かなくなった。そのまま眠りに就いたのかと思われたそのとき、レアナはがばっと起き上がり、カーディガンをパジャマの上に羽織ると、自分の部屋を出て行った。

 部屋を出たレアナは隣室であるバスターの部屋の前に立っていた。しかしノックをしかけて、手が空中で止まっていた。もしかしたらもう寝ているかも……でもバスターは宵っぱりだから……数分思案した後に、レアナは思い切って扉をノックした。返事は……返ってこなかった。やっぱりもう寝てるんだ……レアナが軽い失意と共に自室に戻ろうとしたとき、バスターの部屋の扉がシャッと開いた。
「レアナ? どうしたんだ?」
 見ればバスターもレアナと同じくパジャマ姿だったが、頭にタオルを被っていた。濡れた髪から水滴が落ちかけているところを見ると、どうやらシャワーを浴びたばかりらしい。レアナはバスターに近づくと、その手を取ってぎゅっと握った。
「……ちょっとだけ、いい?」
「ああ、俺はいいぜ。入れよ」
 レアナがおずおずと言うと、バスターはあっさり承諾した。その言葉に従って中に入ると、微かに煙くさい匂いを、レアナの鼻腔が捕らえた。
「あれ、この匂い……バスター、タバコ吸ってたの?」
「さっきな。エアクリーナーをかけてたんだけどな……そんなに臭いか?」
「ううん、ほとんど匂わないし、これくらいなら平気。でもバスター、ずいぶん遅くにシャワー浴びたんだね」
「いや、ちょっとウトウトしちまって。さっき起きたばかりなんだ。それでシャワー浴びるのを忘れてたから慌ててな」
「ノックの音、よく聞こえたね」
「ちょうど浴び終えたばかりだったからな。ドンピシャのタイミングだったぜ」
 そう言いながら、バスターはタオルで髪をごしごし拭きながらベッドに腰掛けた。レアナもその隣にちょこんと座った。
「本当にタイミングよかったなあ。俺達、テレパシーででも通じてるのかもな」
 バスターが笑うと、レアナもつられて笑った。だが、すぐにその表情は曇った。
「レアナ? 何かあったのか?」
 バスターが怪訝な顔で尋ねた。だが、レアナは首を振るばかりだった。
「なんでも……ないよ」
「……そうか?」
「そうだよ……なんでも……」
「嘘だな」
 バスターのはっきりした言葉に、俯いていたレアナはハッと顔を上げた。バスターはそっと手を伸ばし、レアナの掌を触り、そのまま握った。
「お前は嘘が下手なんだよ。それに緊張してるじゃねえか。俺の前でどうしてそんな緊張する必要があるんだよ?」
「どうして……緊張してるなんて……」
「お前の手、冷たいからな。緊張してると手が冷たくなるって、前に聞いたことがあるんだ」
「……バスターの手があったかいからじゃないの?」
「いーや、お前の手が冷たいんだよ。本当にどうしたんだ、一体?」
 バスターが握ったレアナの手の指に自分の指を絡めていると、レアナが重い鉛の口の蓋を開けた。
「この前は辛い思いしてるバスターに心配かけちゃいけないと思って言わなかったけど……あたし、自分がわからないの」
 予想もしていなかった言葉に、バスターは「?」となり、レアナの顔を覗き込んだ。
「どういう意味だよ、それ……」
「1週間前のバスターと同じ……なのかな。ううん、それとも違うと思う」
 1週間前――バスターはレアナに、親や友人などをあの「石」による大惨事で失ったのに、自分が「悲しい」という感情を抱けないと告白した。そして自分は冷血漢だとも。レアナは必死になって、バスターの心を暖かく包み込み、バスターの心を癒した。
 だが、今はそのレアナが「自分がわからない」と言っている。握った手に力を込めると、バスターはもう片方の手でレアナの頬に手をあてて、自分のほうへそっと顔を向かせた。レアナは顔色は紙のように白く、そして無表情だった。今まで見たことのないレアナの表情に戸惑いながらも、バスターは再度尋ねた。
「な、どういうことなんだよ」
「……あのとき……地球があんなことになったとき……あたし、まっさきにお父さんとお母さんのことを思ったの。でも……その前にバスターが教えてくれたでしょ? お父さんとお母さんはもういないって……そのことを思い出したら……ホッとしてる自分がいたの」
 バスターは黙って聞いていた。それでも手は握ったままだった。
「ひどいよね。あたしを育ててくれた人達や軍で知り合いになった人とかのことはなんとも思わなかったんだよ? あんなにたくさんの人が死んだのに、お父さんとお母さんのことしか考えなかったんだよ?……1週間前にバスターに言ったように、自分の心がまだびっくりしているからなのかもしれない。でも、それとも違う気がするの。ねえ、なんでだろう? あたしって、こんなにも薄情な人間だったのかな」
 レアナは懇願するような表情を浮かべ、バスターにすべてを話した。それはまるで、迷い子となった子猫のようでもあった。バスターはレアナの頭をそっと撫で、握ったレアナの手に唇で触れた。
「それが正常なんだよ」
 レアナはびっくりした表情で、バスターの青紫色の瞳を見つめた。その目には彼の優しさが溢れていた。
「人間ってそんなもんなんだよ。知らない他人が死ぬよりも、自分の飼っている猫が死んだほうがよほど悲しいんだ。そうだと思わねえか?」
「でも、でも……! あたし、本当にお父さんとお母さんのことしか頭になかったんだよ!? 他の知ってる人のことは何も思わなかったんだよ? それでも、それが普通なの?」
「自分の親のことを真っ先に思うのは当たり前じゃねえか……ましてやお前は小さい頃に親を亡くしてるんだ。おまけにそれを知らずに育って……だから、人一倍、親のことを思うのは当然だろ?」
「バスター……」
 レアナは青い瞳でバスターを見据えたまま、言葉を紡ぐことが出来なかった。
「それにさ、お前、1週間前に俺に言ってくれただろ? 『きっとそのうちに整理がつくから』って。あれ、正しかったよ……」
「え?」
「親父のことはまだこんがらがってるけど……友達のことなんかを思い出すと、その、なんて言うか……胸が詰まるようになっちまったんだ。きっとこれが、俺なりの「悲しさ」なんだろうなって思う。お前が言ったとおりだった。時間が経たなきゃ分からないこともあるんだな」
「そうだったの……」
「だからお前にも……親以外の犠牲になった知り合いのことを思って悲しくなるときが来るさ。そのときに思いきり泣くなりすればいいじゃねえか。でも、お前が泣いている姿は見たくないってのが本音だけどな……」
「うん……」
「そういうこと。手、あったかくなったな」
 バスターの言葉を受けてレアナはバスターと握った手を見た。そういえばこの部屋に入ってから、バスターはずっと自分の手を握り続けてくれたことをレアナは思い出した。
「バスターがあっためてくれたんだよ」
「そうか?」
「うん。この手だけじゃなくって、あたしの……心も……」
 そう言うとレアナはバスターに寄りかかった。
「ありがとう……バスター……」
「バカだな……こんなことで礼なんて言うなよ……」
 レアナはバスターに寄りかかったまま、目を閉じた。バスターはレアナの背中を優しくぽんぽんと叩いた。
「ねえ、バスター」
「なんだ?」
「ひとつだけ信じてほしいことがあるの」
 レアナは目を開き、バスターの顔をまっすぐ見つめた。
「1週間前……バスターが苦しんでいたときに、あたしがバスターに言ったこと、みんな心の底からだからね。さっきのあたしと同じようなことを言ってても、バスターのことをひどい人だなんて、これっぽっちも思わなかった。だって、あたしのほうがひどい人間じゃないかって思ってたし……ただ、バスターをなんとかして助けたかったの。それだけは信じて……」
「信じるさ。あのときのお前を思い出せば嫌でも……それに、お前は嘘がつけないんだから」
 バスターはレアナの手を握ったまま、彼女の肩にもう片方の手をやった。
「ありがとう……」
 レアナは口元に笑みを浮かべ、再び目を閉じた。今はただ、二人で体温を分かち合えることが何よりも愛しかった。



あとがき


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