[未来の約束]


「おにい……ちゃん……?」
 幼いレアナは自分に割り当てられた部屋のベッドの上で目を覚ました。リノリウムの冷たい床、夜には眩しいくらいの照明が光る天井。この部屋には窓がないから、余計に圧迫感が強かったのかもしれない。それらのマイナス要素を緩和してくれているのが、レアナが買ってもらったり、自分で作ったりしたぬいぐるみたちだった。
 レアナは目をこすり、ベッドから降りた。裸足の足はリノリウムの床には余計に冷たかった。そばに置いてあるスリッパを履くと、レアナは一体のぬいぐるみのそばへ近づいた。それは彼女がいちばん大事にしている猫のぬいぐるみで、その腕にはハンカチが巻かれていた。レアナはそのぬいぐるみを棚から降ろすと、宝物のようにぎゅっと抱きしめた。
「レアナ? 起きてるの?」
 扉がシュッと開き、このレアナが生活している軍の研究施設勤めの女性職員が入ってきた。レアナはぬいぐるみを抱いたまま、「おはようございます」と礼儀正しく答えた。それはもはや、彼女の日常だった。
「おはよう。でも、朝からぬいぐるみ遊び? もう12歳になるってのに、ちょっと子供っぽすぎやしないかしら?」
「あそんでたんじゃないです……ただ……夢を見たから……」
「夢? そのぬいぐるみの?」
「え、えと、その……」
 レアナはしどろもどろになって答えることが出来なかった。それで、相手の女性は少しかわいそうに思ったのか、それ以上は追求しなかった。
「まあいいわ。食事の時間はもうすぐですからね。遅れないようにするのよ」
「はい。アジャーニ先生……」
 レアナがアジャーニと呼んだ女性が出て行くと、レアナはもう一度ぬいぐるみをぎゅっと抱いた。そしてそのぬいぐるみの腕に巻かれたハンカチを一層大事そうに手に収めた。そのハンカチは、今朝見た夢の中でレアナがもっと幼かった頃に貰ったものだった。

 本名の「マリアン=レアノワール」から通称が「レアナ」になったのはいつ頃からだろう。少なくとも、5歳の頃に軍の施設に入って、9歳頃まではファーストネームの「マリアン」で呼ばれていたことは確かだった。それがいつの間にか「レアナ」になっていた。「マリアン」というファーストネームよりも、「レアノワール」というファミリーネームのほうが、彼女の素性を明かす手がかりになることは間違いなかった。なのに、どうして「レアナ」なのか――レアナはパジャマを脱いで普段着に着替えながら少し考えたが、ぶるぶると頭を振って考えを振り払った。自分の呼び名なんて今はもうどうでもいい。「マリアン」でも「レアノワール」でもない、「レアナ」のままで。だって、自分の居場所はここしかないのだから、ここで呼ばれる名が、今の彼女の名なのだ。着替え終わる頃にはその結論に達していたが、レアナは一抹の寂しさを覚えていた。

 朝食が終わると、すぐに午前中のカリキュラムが始まる。パイロットとしての英才教育「のみ」を与えられた実験体であるレアナにとって、一日の大半はパイロットとなるべく勉強すべき授業・実習内容で埋まっていた。レアナは飲み込みの早い少女だったので、それらの知識と技術を水を吸う砂のようにぐんぐんと吸収していった。その結果を見て、彼女の「教育者」たちは満足な笑みを浮かべていた。当のレアナも笑っていた。だが、その心の奥底ではいつも、わずかにも笑っていない彼女がいた。

 一日のカリキュラムをこなして夕食を摂り、入浴なども済ませると、後は就寝時間までレアナのフリータイムだった。パジャマを着たレアナは、朝と同じようにあの猫のぬいぐるみを取り出し、抱きしめた。そして、腕に巻いているハンカチをぎゅっと握った。
「おにいちゃん……おにいちゃんは、今、どこにいるの?」
 そのハンカチは3年前、レアナがまだ9歳の頃に、あるパーティに連れられていった際に出会った少年から貰ったものだった。赤毛で、意志の強そうな青みのかった目をした、どこか大人びた少年だった。どうやら大物政治家の息子らしいということはレアナにも分かったが、結局、お互いの名前を知りはしたものの、それからあまり話もしないままに別れてしまった。大木に一緒に登った後、ただひとつだけ約束をして。

『……そうだ! おにいちゃんも”パイロット”にならない? だって、あたしも”パイロット”になる勉強してるんだもん。そうすれば、大人になってから、また会えるかもしれないよ!』
『そっか……そうかもな』
『うん! そうしようよ! それで、また会おうね!』

 そのことをパーティの帰り道に保護者に話すと、彼らは笑っていた。なぜ笑われたのか、9歳のレアナにはわからなかったが、3年経った今なら分かる気がした。あの少年は政治家、それもかなりのやり手の代議士の息子。そんな人物がいずれは軍の実験体パイロットとなるレアナと同じように、連邦軍に所属するパイロットになるはずなどないと。そのことを思い出したレアナは急に悲しくなり、ぬいぐるみを抱いたままベッドに突っ伏した。ぽろぽろと涙が零れ落ちた。その涙を、レアナはハンカチではなくて自分のパジャマの袖で拭った。そして、消灯時間が訪れる頃には、いつの間にか泣きながら眠っていた。

『……レアナ』
 夢の中で、レアナは自分の呼び名を呼ぶ声を聞いた。それは聞いたことのない男性の声だったが、なぜか懐かしかった。
『レアナ、どうしたんだ?』
 見ると、自分の前には20歳前くらいの青年が屈みこんで、青紫色の瞳でレアナを見つめていた。赤毛のその青年は、夢の中でも泣いていたレアナの涙を、優しく指で拭い取ってくれた。「レアナ」という呼び名も、その青年が口にすると、まるでそれが自分の本当の名前のような温かさに包まれていた。そんなとき、レアナは既視感に襲われた……赤毛? 青みを帯びた目?……レアナは恐る恐る口を開いた。
「おにいちゃん?……あのときのおにいちゃんなの?」
 青年は何も答えず、ただ優しく笑っていた。肩口で切りそろえたレアナの髪の毛を指で梳くと、すーっと、その青年は消えていった。
「待って!」
 レアナが飛び起きると、そこは見慣れた自分の寝室だった。ベッドサイドの電灯をつけると、青年が夢の中で消えてしまったことがとても悲しかった。だが、不思議と涙は出なかった。それは、あの言葉のせいかもしれなかった。

 あの言葉。あの青年は消える間際に言葉を残していた。そしてそれははっきりとレアナの耳に残っていた。
『また必ず会えるから……な?』
 青年はそう言い残し、笑ったまま消えたのだ。
「ほんとうに、ほんとうに会えるんだよね? おにいちゃん……?」
 レアナは青年の代わりのように、猫のぬいぐるみを強く抱きしめた。

 レアナが幼い頃に出会い、夢の中でも出会ったあの青年に再会するのは、これより5年後のことである。言うまでもなく、バスターとの出会いがそうだった。
 レアナはかつて見た夢のことは忘れていたので、なぜ大人になったバスターが子供のレアナの夢に現れたのかということも不思議に思わなかった。それは直感や霊感に優れたレアナが見た未来視であったのかもしれない。けれど、あの夢が現実になった今、真実はもうどうでもよかった。
 ただ、バスターに出会ったとき、どこか懐かしいとは感じた。そして、その懐かしさが特別な愛情に変わるまでには、時間はそうかからないことでもあった。バスターと一緒にいられるときがいちばん安らぐとき――そう感じながら、レアナは今日もバスターのそばにいて、その温かさを共有していた。そんな彼女の口元に浮かんだ笑みは、心の底から自然に湧き出たものだった――。



あとがき


BACK
inserted by FC2 system