[夢のあとさき]
置いていくのか。裏切るのか。逃げるのか。そんな思いがないまぜになり、過去の出来事が走馬灯のように頭の中で蘇った。
行かないでくれ。裏切らないでくれ。逃げないでくれ。どんなにそう願ったことか。だが、頭の中をよぎる光景は何も変わらなかった。俺を、俺を――。
バスターはがばっと身を起こした。鼓動がどくどくと音を立てているのがはっきり分かる。ぜいぜいと息も激しかった。あんな夢――それは、バスターが今までに体験してきた「負」の思い出の連続だった。世の中を一人で渡り歩いてきただけあって、バスターの人生経験は豊富だった。いや、豊富すぎた。楽しい思い出もあったはずだが、辛い思い出のほうが多かった気がする。いや、「気がする」のではない。実際にそうだった。それが彼の人間不信な一面を作り出していたのだから。
呼吸が落ち着き、動悸も収まったのを確認すると、バスターは再びベッドに横になった。だが、何度寝返りをうっても、眠りは彼の上に降りてこなかった。このまま起きていようかとも思ったが、明日に支障が出るし、何よりもさっさとあんな夢はぐっすり眠って忘れたい。バスターは再び起き上がると、クリエイタがいるであろう医務室のほうへと足を運んだ。
「クリエイタ、いるか?」
医務室の扉を開けると同時に、バスターは中に向かって声をかけた。しかし、そこには思いも寄らぬ人物がいた。
「あれ? バスター、どうしたの?」
声のほうを向くと、医務室の簡易ベッドに座っている、肩掛けを羽織ったパジャマ姿のレアナが目に入った。
「いや、ちょっと……お前こそ、どうしたんだ?」
「せきがとまらないの……だからせき止めをもらおうと思って……」
そう言った矢先にも、レアナはコンコンと咳をした。そういえば昼間、彼女が風邪気味だと言っていたことをバスターは思い出した。咳のとまらないレアナのそばに寄ると、バスターは彼女の背中をさすってやった。
「大丈夫か?」
「うん……けほっ! けほっ!」
「……大丈夫じゃないみたいだな」
「オマタセシマシタ。オヤ? バスター、ドウカシマシタカ?」
クリエイタが医務室の奥から咳止めらしきカプセルと水を盆に載せて出てきた。バスターはレアナの背中をさすってやりながら答えた。
「あ、ああ……寝付けなくってな。クリエイタ、悪いけど、睡眠薬もらえるか?」
「ワカリマシタ。イマ サガシテキマスネ。レアナ ドウゾ」
薬と水の載った盆をレアナの横に置くと、クリエイタは再び奥の薬品庫のほうへ戻っていった。レアナはカプセルを飲むと、ふうとため息をついた。そんなに速く薬が効くはずもないが、薬を飲んだことで精神的に落ち着いたようだった。そんなレアナの様子に、バスターもほっとしたようだった。
「今度こそ大丈夫みたいだな」
「うん……ありがとうね、バスター。背中、さすってくれて」
レアナはそう言うと、隣に座ったバスターの膝の上に手を置いた。バスターはその手の温かみを感じながら、照れくさそうに返した。
「そんな大したことじゃねえよ」
「でもバスター、睡眠薬がほしいなんて、そんなに眠れないの?」
レアナは心配そうにバスターの顔を見つめた。バスターはその視線から逃げるように顔を下へ向けた。
「……ああ、どうにも今日はな……」
「怖い夢でも見たの? それで眠れなくなっちゃったとか?」
「怖い夢、か……似たようなものかもな」
「バスターでも、そんなことあるんだ……」
レアナが呟いた言葉に反応し、バスターは顔を上げた。
「なんでだ? 俺だって怖いもののひとつやふたつ、あっていいだろ?」
「うん。でも、バスターって、怖いものなんかなさそうに見えるから……」
「俺が?」
レアナの言葉に、バスターは自分がいかに楽天的な自信家に見られているかを思い知った気がした。本当はそんなことはない。隠している自分は過去を恐れている人間不信気味なちっぽけな男だと――そうレアナに言いたかった。けれど、言えるはずがなかった。
「まあ、俺は結構ナイーブってことさ」
バスターは笑いを作ってレアナの肩をポンと叩いた。レアナはそれでもどこか心配げだった。
「そう?……あ!」
何の拍子か、レアナが片手に持っていたグラスが、手から滑り落ちてしまった。グラスは床にぶつかってたちまち割れ、ガラス片が飛び散った。中身が空だったことが救いかもしれなかった。
「あ……や、やだ!」
「何してんだよ、まったく」
バスターとレアナは同時に屈みこみ、ガラス片を拾い出した。その中のひとつをつまみあげたとき、バスターの指先に痛みが走った。
「いて!」
見てみると、案の定、右の人差し指の指先がガラス片で切れていた。傷口は小さかったが、その傷口を見ている間にも、血の粒が膨らんできた。
「た、たいへん! バスター、その手、かして!」
ひったくるようにバスターの右手を捕らえると、レアナは迷わずその指先を口に運んだ。あまりにも一瞬の出来事だったのでバスターはぽかんとしたが、すぐに我に返って慌てた。
「だ、大丈夫だって! おい!」
「だいじょうぶなんかじゃないよ」
わずかに指先を離してそう言うと、レアナはまたバスターの指先を口に含んだ。バスターは右手を引っ込めることも忘れていたが、再度、レアナに言った。
「き、きたねえだろ、人の血なんて」
「どうして? バスターのケガなのに? あたしは全然平気だよ」
指先を口から離すと、レアナは平気な顔をしてそう言った。彼女が嘘をつくはずなどない。本心からの言葉であることは確かだった。それでもバスターは確かめるように問うた。
「俺の……だからか?」
「え?」
「い、いや、なんでもない」
「ドウシタノデスカ!?」
バスターが戸惑いながらも言葉をはぐらかすと、ちょうどクリエイタが奥から出てきた。割れたガラス片やバスターとレアナの様子を見て、冷静なロボノイドである彼も少し慌てたようだった。
「あ、クリエイタ。ばんそうこうとお薬、ある?」
「ハ、ハイ。スグニモッテキマスネ」
クリエイタは睡眠薬と水を載せた盆を手近の台に置くと、奥へ引っ込み、救急セットの入った箱を持ってきた。
「ありがと。バスターの手当てはあたしがするから、クリエイタ、ガラスを片付けてくれない? ごめんね」
「イイエ、アヤマラレルコトハナイデスヨ。ワカリマシタ」
そう答えると、クリエイタはガラス片を拾い集め出し、レアナはバスターの指先に抗生剤軟膏を塗り始めた。軟膏を塗った切り傷の上に丁寧に絆創膏を貼り終える頃には、割れたガラスの掃除もあらかた終わりかけていた。
「はい、これでいいよね……ごめんね、あたしがコップを落としちゃったせいで」
「ケガしたのはお前のせいじゃないんだ。こっちこそ手当てまでしてもらって悪かったな」
「ダイジナクテ ヨカッタデス」
「そうだねー」
レアナとクリエイタは顔を見合わせて、にっこりと笑った。その様子に、バスターは自分も自然と笑みを浮かべていることに気付かなかった。
「じゃあ、バスター、おやすみなさい。ぐっすり寝れるといいね」
医務室を出て、バスターとレアナは彼らの部屋の前まで戻ってきた。
「薬を飲んだし、大丈夫だろ。お前もよく寝て風邪、早く治せよ」
「うん。それじゃあね」
レアナが彼女の部屋に入っていくのを見届けると、バスターも自室に戻った。ベッドに横たわると、眠気が軽く襲ってきた。だが、それは睡眠薬の効き目だけではないようだった。
(俺のケガを何のためらいもなく……あいつはそういう奴なんだよな……)
先ほどのレアナの行為、いわばバスターに対するレアナの無償の愛情とも取れる出来事が、バスターの心をほぐしていた。レアナはどこへも行かない、自分の傍にいてくれる、自分を心配してくれる。そう思うだけで、バスターの胸はいっぱいになった。
(子供じゃあるまいし……どうしてあんなことぐらいで、こんなにも穏やかになれるんだ……?)
その答えはバスター自身がいちばんよく知っているはずだった。だが、今は解答を出すのはやめにした。眠気が思考を遮ってきたのだ。しかし、今度訪れた眠りは、先のような悪夢ではなかった。「負」の記憶はバスターの心の奥底にしまわれたのだ。レアナによって。バスターの穏やかな寝息が、その証明だった。
あとがき
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