[その指先、いつまでも]


どこへ行くの?
あたしを置いて、どこへ行こうというの?
ねえ、どうして……どうして……?


「ん? こりゃ、レアナの上着じゃねえか。仕分けのときに間違えたんだな」
 そう言いながら、洗いたての白い上着を腕にひっかけると、バスターは隣のレアナの部屋をノックした。だが返事がない。念の為にインターフォンも押してみた。しかし、やはり反応はない。
「寝ちまってるのか? 夕食後だしな……」
 バスターは一人呟くと、扉はロックされていないことに気付いた。入っちまうか……洗濯物を届けに来ただけだし……そう思い、バスターは扉を開けた。すると、ベッドの上でななめになって寝ているレアナの姿が目に入った。室内の灯りはつけっぱなしだったが、ちゃんとシューズは脱いでいるところに、妙に細やかなレアナの女の子らしい部分を感じた。
「レアナ?……しょうがねえな……」
 何か上に羽織ってやれるものはないかと室内を見渡すと、椅子の背にひざ掛けが掛かっているのが目に付いた。空調はそれほど寒くないし、とりあえずこれを羽織っていれば風邪を引くことはないだろう――バスターはそう思い、ひざ掛けを手に取って、うつぶせに眠っているレアナの背中にかけてやった。そのとき、微かにレアナが声を上げた。
「ん……」
(やべえ、起こしちまったか?)
 バスターは内心でドキリとしたが、レアナは目を覚ましかけているという訳ではなさそうだった。寝息も安定しているし、体を動かす気配もない。だが、そっとレアナの顔を覗き込んだバスターは、驚愕した。閉じられたレアナの両の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれていたのだ。
(お、おいおい……起こしたほうがいいのか?)
 バスターがどぎまぎしていると、レアナは体を少し動かした。そして、はっきりとこう言ったのだった。
「行かないで!」
 瞬間、レアナは腕をバスターのほうへ伸ばしていた。そして、その手はバスターの左手を掴んでいた。その感触に刺激されたのか、レアナがゆっくりと目を開けた。
「え……? バスター……?」
 思いもよらぬ人物が傍にいたことに、レアナはいささか驚いた様子で、バスターの左手を掴んだ片手もそのままだった。バスターは何と言っていいものやら困ってしまったが、とりあえず自分がここにいる理由を話そうと思った。
「あ、あのな、俺の洗濯物に、お前の上着が混じってたんだよ。だから届けに来たわけで……わかったか?」
 レアナは説明を聞いてもしばらくぼーっとしていたが、自分がバスターの手を掴んでいることに気付き、顔を赤らめて慌ててその手を放した。そしてそのままその手で、両目にたまった涙を拭い取った。
「ご、ごめんなさい。まさか本当にバスターがいるなんて……」
「本当に?」
「う、うん……」
 レアナは口ごもってしまったが、バスターは一体どういうことだという疑問を捨て去れなかった。それにあの涙……。バスターは思い切って、だが優しい口調で、レアナに尋ねてみた。
「なあ、レアナ……お前、泣いてただろ? それに俺が本当にって……一体、何があったんだ?」
「そ、それは……」
 レアナは顔を赤くして口ごもってしまった。しかし、バスターが根気強く待っていると、ようやく口を開いた。
「あのね……バスターの夢を見てたの……」
「俺の? へえ、そりゃ興味あるな、出演者としては」
 バスターがおどけた様子で答えると、レアナも釣られて少し笑った。
「でも、今のあたしとバスターじゃなかったの」
「今の?」
「うん。ほら、あたしたち、子供のころに会ったことがあるでしょ? あれくらいのときの……」
 レアナの言葉に、バスターは過去の思い出を手繰り寄せた。確かにバスターは10歳頃に、やはりまだ子供だったレアナと1度だけ出会ったことがあった。ケガしたレアナを手当てしてやり、二人で高い木に登った。バスターはそのときのことを思い出すうちに、まるで昨日のことのように感じていた。
「ああ、そういえば、そんなことあったなあ。で、そのガキの俺がどうしたんだよ?」
「……あたしがひとりで歩いていたら、バスターが道の向こうに見えたの。あたしのほうへ手をふって。だから、あたし、いっしょうけんめい追いかけたの。でも、バスターにはどうしても追いつけなかった……バスターは笑ったままこっちを向いてくれてたんだけど、そのうちに向こうを向いて歩き出して、とうとう見えなくなっちゃって……それで、泣いちゃったんだね、あたし……」
「レアナ……」
「でも、いま目が覚めてよかった……」
「?……なんでだよ?」
 バスターは不思議そうにレアナを見た。するとレアナは微笑んで、バスターの顔を見上げた。
「だって、バスターはどこにも行かないで、ここにいてくれたんだもの。夢ではどこかへ行っちゃったけど、本当の世界ではこうしてここにいてくれたもの……びっくりしたけどね。だけど、うれしかった……」
 レアナは笑ったまま、立ちぼうけているバスターの右手を握った。柔らかなレアナの手の感触が、グローブ越しに伝わってきた。バスターはどこか照れ臭そうにしていたが、やがて小さな子供を諭すように言った。
「俺は、どこにも行ったりしねえよ。ましてやお前をひとりぼっちにしてなんてな。だから、安心しろよ? な?」
 バスターがレアナの頭を撫でると、レアナはまた嬉しそうな顔でバスターを見つめた。
「うん……!」
「さ、寝るんだったら、ちゃんと着替えて寝ろよな。パイロットスーツがしわになっちまうぞ」
「あ、そうだね……」
 レアナは備え付けのクローゼットを開くと、着替えのパジャマとタオルを取り出した。どうやら、寝る前にシャワーを浴びるつもりらしい。その雰囲気を察したバスターは、部屋から出て行こうとした。
「じゃあな。ちゃんと髪乾かして寝ろよ?」
「うん。あ、バスター……!」
「なんだ?」
「……ありがとう。さっき言ってくれたこと、すごくうれしかったよ……」
 バスターは朱に染まった顔を隠すかのように向こうを向き、すっと扉を開いた。出掛けに、こう呟いて。
「そんなこと言われたら照れちまうじゃねえか……けど、お前のその言葉聞いて、俺も嬉しいぜ」
 扉が閉まった後も、バスターの言葉は反響のようにレアナの心に残っていた。シャワーを浴び、パジャマに着替えて改めてベッドに横になると、少しの間を置いて穏やかな寝息を立てて眠りについた。

 夢の中で、幼かったレアナは17歳の少女に成長し、さほど年の変わらぬ赤い髪の青年としっかりと手をつないでいた。レアナを見つめて優しく微笑むその青年が誰なのかは、言うまでもないことだった。


よかった……待っててくれたんだね。
あたしたち、ずっといっしょにいていいんだよね……。
ねえ、バスター……。



あとがき


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