[懐かしい未来]


 覚えのある匂いだった。ただ、それは例えば花や柑橘系の匂いのような甘くてふわふわしたものではなく、もっと身近で知っている匂いだった。例えるならば、どこか懐かしい――そんな匂いだった。同時に、暖かい感触を感じた。暖かいだけでなく、力強かった。その感触にも覚えがあった。どこで知ったのだろう……なぜこの力を覚えているのだろう……考えを巡らそうとしたが、うまく頭が回らなかった。そうしているうちに、聞き覚えのある声が聞こえてきた。何人かの声が混じっていたが、その声にも親しみがあった。誰だろう……誰が自分を呼んでいるのだろう……。
「レアナ! レアナ! おい! しっかりしろ!」
 レアナが目を開けると、彼女の顔を覗き込むバスターの顔がまず目に入った。バスターはしゃがみこんでレアナを膝の上に抱き、名前を呼びながら彼女の肩をゆさぶっていた。
「バス……ター?」
 レアナが呟くと、バスターはホッとした表情になり、肩を揺さぶるのをやめた。代わりに、今度はそっとレアナの頭を撫でた。
「おい、大丈夫か? レアナ?」
 レアナを挟んでバスターの反対側にはガイがしゃがみこんでおり、やはり心配そうにしていたが、レアナが意識を取り戻したのを見て、安堵したようだった。ガイの横にはいつの間に来たのか、クリエイタがおり、更にその横にはテンガイまでもがいた。
「え?……ね、ねえ、あたし、みんな……あたし、どうかしたの?」
「どうかしたのじゃねえよ」
 ガイが少し呆れたような、しかし安心した口調で答えた。
「お前、2号機のコクピットハッチから転んで落っこちたんだぜ? それも見事にな。息はしてるけど、全然目を覚まさねえから、すっげえ心配したんだからな」
「そ、そうなの……? あ、そういえば……」

 レアナはおぼろげな記憶を手繰り寄せた。確かにさっきまで、バスター、レアナ、ガイの3人は、それぞれの担当する機体である「シルバーガン」の定期メンテナンスを行っていた。シルバーガンは今は亡き連邦軍最新鋭の戦闘機で、すさまじいスペックを誇る機体だが、それゆえにその内部機構にはデリケートな箇所が多くある。そのため、たとえ実戦前ではなくても、定期的にメンテナンスを行う必要があった。だから今日も、3人の若きパイロットたちは、自分の機体をチェックし、メンテナンス作業に励んでいたのだった。その作業も終わったので、レアナはいち早くシルバーガン2号機から降りようとした。だが、思わぬことが起きた。 レアナの踏み出した片足が不意に滑ってしまったのだ。レアナは慌てて手身近な掴まる箇所がないかと手を伸ばしたが、それも間に合わなかった。次の瞬間、無機質な格納庫内に響く音と共に、レアナは2号機から滑り落ちた。そこでレアナの意識は途切れていた。ただ、近くにいるはずのバスターとガイの声が、なぜか遠くから聞こえてくるように感じていた。

「ごめんなさい……みんなに心配かけちゃって……」
「謝る必要なんぞない。お前が無事だったのなら、それに越したことはないのだからな」
 黙って様子を見ていたテンガイが、しゅんとしたレアナを気遣うように言った。いつものどっしりと構えた声だったが、そこからはレアナの身を心から案じていた優しさが汲み取れた。
「ノウシントウヲ オコシタノデショウネ。ネンノタメ シバラク ヤスンデイレバ ダイジョウブデショウ」
「そうか。なら、俺がこのまま部屋まで連れて行くよ」
 クリエイタの言葉を受けて、バスターがレアナを抱き抱えたまま、立ち上がった。レアナはそのバスターの行為に、急に恥じらいを覚え、顔を少し赤くした。
「だ、だいじょうぶだよ、バスター。あたし、もう歩けるから……」
「何言ってんだよ。またすっ転びでもしたら、大変なんだからな」
 言葉を返せず、レアナは黙ってバスターの厚意に甘えることにした。ガイやテンガイ、クリエイタもバスターに任せることに異存はないらしかった。
「ちゃんと連れてけよ。自分の部屋に連れ込んだりはするなよなあ?」
 ガイがおどけると、バスターは顔を赤らめ、すぐさま反論した。
「バ、バカ言うんじゃねえよ! なんならお前、ついてきたらどうだよ!?」
「俺様はお邪魔虫にはなりたくねえんでな。お前の良心にまかせるって」
 ガイは顔を赤くしたバスターとは対照的に、涼しい顔をして笑った。バスターは結局、何も言わず、レアナを抱えたまま、格納庫を出て行った。その様をテンガイは腕組みしたまま、クリエイタはアイモニターに笑顔を映しながら、見送っていた。

「ねえ、バスター……」
 レアナの部屋に入ったバスターがレアナをベッドに寝かせると、レアナは不意に問いかけてきた。彼女にブランケットをかけようとしていたバスターは、腕を止めて「なんだ?」と返答した。
「あたし、バスターにさっきみたいに抱っこしてもらったことって、今までにもあったっけ?」
 いきなりの思いも寄らぬ質問に、バスターはまたも顔を赤くした。それでもブランケットをレアナにかけてやると、ベッドの端に腰を下ろして答えた。
「そ、そんなこと、あるわけねえだろ。何言い出すんだよ、お前は……あ、いや……そういえば、一度……」
 バスターはそれだけ言うと口をつぐんでしまった。レアナはその先が気になり、バスターを急かすように言った。
「それって、いつ……あ……!」
 レアナも思い出したようだった。それは去年、西暦2520年7月14日に突然起こった「災厄の日」より以前。バスターは自分の父親がレアナから両親を奪った黒幕だったと告白したことがあった。そのとき、泣きだしたレアナを、バスターはそっと抱きしめていたのだった。レアナ自身の悲しみよりも、バスターの葛藤を思って泣いてくれたレアナが愛おしくて。そのときのことを思い出したバスターは、更に赤くなった顔を隠すかのように片手で覆った。一緒に思い出したレアナもなにか恥ずかしくなり、頬を朱に染めた。しかし、レアナはその事実だけでは納得していないようだった。
「それだけ……だったっけ……?」
「そ、それだけだろ? 俺、お前にそれ以上のことはしてねえだろ?」
「そっか……だからなのかな……」
「何がだよ?」
 バスターはレアナの言葉に不思議そうな顔をした。レアナは横になったまま視線を上げると、まっすぐにバスターのほうを見つめて言った。
「あのね、あたし、さっき……すごくなつかしかったの」
「懐かしい?」
「うん……バスターの匂いとか、腕の感触とか……去年のそのときのことを思い出したからなのかな」
「そんなこと思ってたのか。でも、多分そうなんじゃねえのか?」
 バスターは頭に手をやって、髪をかいた。まだ顔が赤いところを見ると、照れ隠しのようだった。
「そうだよね……でも……」
「でも?」
「……ううん、なんでもない」
「なんだよ? 気になるだろうが」
 バスターはレアナの言いかけた言葉が気になるようだった。しかし、レアナは小さく微笑んで首を振った。
「本当になんでもないよ。気にしないで」
 幸いというか、バスターは、それ以上は追求しなかった。他者の心に踏み込むことをよしとしない彼の性格の表れとも言えた。その代わりのように、レアナの頬に手を伸ばし、その輪郭を辿るように優しく撫でた。
「もう寝ろよ。頭、痛くないか? 安静にしてなきゃいけないのに、ちょっと喋りすぎたな」
「ううん、だいじょうぶ。でも、ちょっと疲れたかな……」
 レアナはブランケットから手を出し、自分の頬を撫でるバスターの片手を握った。彼女の手よりも一回り大きな手を握ったまま、レアナは目を閉じた。

(あたしはこの手の暖かさも覚えてる。バスターが言ったように去年のあのときの思いが残っているのかもしれないけど、少し違う……それよりも前、ずっと昔にも、この人にこうしてもらったことがある気がする。子供のころに出会ったとき?……ううん、それよりももっと前。でも、そんなことってあるの? どうしてなんだろう、どうしてあたしは、バスターの匂いや腕の感覚が、こんなになつかしいの……? ねえ、バスター……)

「レアナ? 眠ったのか?」
 レアナはその問いには答えず、すうすうと穏やかな寝息を立て始めていた。バスターはそんなレアナの表情を見て微笑むと、彼女が起きないように静かに手を放した。そのまま音を立てないように立ち上がったが、少しだけためらった後にかがみこんで、眠るレアナの額にそっとくちづけた。唇を離すと、部屋の灯りを消し、バスターは出て行った。静かな部屋の中でレアナは眠り続けていたが、その口元には安心しきったような笑みが浮かんでいた。

 レアナが覚えていたバスターの感覚。それは、彼女とバスターとがこの後に辿る未来であり、同時に遠い過去でもある記憶の断片だったのかもしれない。もちろん、二人がそれを知る由もないし、確証もない。けれども、今、ここに存在するバスターとレアナの想いは現実だった。それは疑う余地もないし、形はないけれど、確かなものであることには間違いなかった――。



あとがき


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