[重力よりも強く確かなもの]


 TETRAの厨房で夕食の支度をしていたレアナとクリエイタだったが、不意に体を支える力がふっと消え去り、二人は一瞬、足下から宙に浮きかけた。
「え!?」
 レアナが声をあげた瞬間、その力が消えたときと同様に、空間を支配する力は唐突に元に戻った。レアナは勢いよく尻餅をつき、クリエイタも大きな音を立てて仰向けに転がった。
「いたた……大丈夫? クリエイタ?」
「ハイ ダイジョウブ デス」
「どうしたのかなあ? 機関室で何かあったのかなあ?」
「ソウカモ シレマセンネ」
「とりあえず、ここをかたづけようよ、クリエイタ。でもよかった、ああなったのがちょっとのあいだだけだったから、食器もほとんど壊れてないみたいだし」
 立ち上がったレアナがクリエイタを床から起こし、そう声をかけて共に厨房の片づけをしていたとき、バタバタと大きな音が近づいてきて食堂の扉が乱暴に開かれた。
「クリエイタ! 悪りいがすぐに来てくれねえか!?」
 レアナとクリエイタは、食堂に駆け込んできたガイの慌てた声に、何事かと振り向いた。
「ガイ、どうしたの?」
 レアナが何気なくガイに尋ねかけると、ガイは蒼白な顔で言葉を返した。
「いま、この船の人工重力が一時的に乱れただろう!? あれ、機関室で重力維持装置がエラーを漏らしたからなんだ! それで……バランスを崩したバスターが頭を打っちまって、意識が戻らねえんだよ!」
「バスターが!?」
 ガイから事情を聞き終えるやいなや、レアナは悲鳴にも似た声でバスターの名前を叫んでいた。

 機関室の中でもTETRA内の人工重力を生み出している重力維持装置に関しては、艦内でも最重要な装置のひとつであり、今日はバスターとガイだけでなく、そういった最重要機関に関しては地球連邦軍きってのスペシャリストであるテンガイも加わって、徹底的なメンテナンスが行われていたはずだった。

 昼食の席で聞いていたそんな事情がレアナの頭の中をぐるぐると駆けめぐった次の瞬間、レアナはガイの制止を振り切って、機関室のほうへと駆け出していた。
「意識がねえから下手に動かすのもまずいだろうって艦長とも話して……お、おい! レアナ!」
 先刻の人工重力が乱れた影響で厨房もそれなりに荒れていたのだが、そんなものはレアナの脳内からは吹き飛んでいた。ただただ、バスターの無事を祈ってレアナは機関室めがけて走り続けていた。
「バスター……! バスター……!!」

「バスター!」
 機関室に飛び込んできたレアナの叫び声に、バスターを介抱していたテンガイが少なからず驚いた表情で振り返った。そして、同時に冷静に事態を把握した。
「レアナか……お前がここに来たということは、ガイはクリエイタにもバスターのことを知らせられたのだな」
 レアナは床に横たわって目を閉じたままのバスターのもとに駆け寄り、その体にしがみついた。
「艦長! バスターは!? バスターは大丈夫なの!?……いや! 血まで出てるじゃない! バスター! 返事して!」
「落ち着け、レアナ。そうは言っても心配なものはどうしようもないだろうが……呼吸は整っておるし、頭をケガしているとはいえ、そう大事ではないと思いたいが……おお、クリエイタ、来たか。さっそく診てやってくれ」
 テンガイの言葉にレアナが顔を上げると、そこには応急用メディカルキット一式を持ったクリエイタとガイの姿があった。
「クリエイタ! はやく診てあげて!」
「レアナ、落ち着け。まずはクリエイタにその場を譲ってやれ。お前がバスターのことが心配でたまらんのは分かるがな」
「あ……うん……そうだね……」
 レアナが場所をクリエイタに譲ると、クリエイタは持参したメディカルキットから様々な診察用具や処置用具を取り出し、バスターの具合を診察していった。そんなクリエイタの様子を、レアナはすぐそばで祈るような思いで両手を握りしめて見守っていた。

「う……ん……」
 バスターの頭のケガを処置して包帯を巻いたのを始めとして、クリエイタが幾つかの処置を行うと、バスターがかすかにくぐもった声を漏らした。その声を聞いた瞬間、そばでバスターの様子を見つめていたレアナはバスターの体に寄り添って声をあげた。
「バスター! バスター! だいじょうぶ!?」
「レアナ……?」
 自分の名前を呼ぶバスターの声を聞いた瞬間、レアナの両の瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「バスター……よかった……。本当によかったよお……」
「レアナ……それにクリエイタまで……どうやら俺はケガでもして気を失ってたみたいだな……。そうなんだろう? 艦長? ガイ?」
 横たわったままの自分にすがりついて泣きじゃくるレアナの髪を右手で優しく撫でながら、バスターはテンガイとガイに現在の状況の説明を暗に求めた。
「お、おう。重力制御装置がエラーを吐いたところまでは覚えてるか? それで艦内の人工重力がいきなり乱れたせいで、お前はバランスを大きく崩して転んじまって、転んだ場所と打ちどころが少し悪かったんだろうな。頭を打って気絶しちまったんだよ」
 ガイの言葉を聞き終えると、バスターはレアナの髪を撫でていないほうの左手で自身の後頭部を触った。包帯越しに手のひらに微かに伝わってきた生温かい温度と感触に、バスターは苦笑いを浮かべた。
「なるほど……俺が血が出るほどのケガを頭に負っちまったうえに意識もなかったから、レアナがいま、こんな状態なわけか……。けど、そう大したケガでもねえんだろう? クリエイタ?」
「コノバデ シンサツシタカギリデハ トクニ イジョウハ ミラレマセンデシタ デスガ ネンノタメニ コノアトニ イムシツデ キチント シンサツシナオシマショウ」
「そうか。ありがとうな、クリエイタ。艦長にガイ……それにレアナにも心配かけて悪かったな」
「お前が無事であったのならそれに越したことはないからな」
「そうだぜ。まあ俺様もすっかり動揺しちまったけどな。レアナほどじゃあねえにしろな」
 ガイの言葉を受け、バスターはゆっくりと身を起こし、なおも彼にしがみついたままのレアナの体を片腕で抱いた。
「レアナ……もう泣くなよ。俺はこの通り、ピンピンしてるんだしよ」
「だって……だって……もしもバスターが死んじゃったらって思ったら……あたし……あたし……!」
「俺はお前を置いてどこかに行ったりしねえよ。だからもう泣くなよ。な?」
「……うん……うん」
 ようやく泣きやんで涙を両の手で拭いながら、それでもバスターのそばを離れようとしないレアナの様子に、ガイは、レアナにとってバスターは本当に唯一無二の大切な存在なのだという事実を改めて認識していた。そしてガイが感じているのと同じことを、テンガイやクリエイタもしみじみと感じていた。
「ソレデハ イムシツへ イキマショウカ バスター」
「ああ、そうだな。こういうケガの検査は早いに越したことはねえしな」
「あの……クリエイタ……」
 レアナがおずおずといった様子でクリエイタに声をかけてきたため、気のいいロボノイドは笑顔で答えた。
「ナンデショウカ? レアナ?」
「あたしも……医務室にいっしょにいってもいい……? 厨房はまたあとで片づけるから……」
「モチロンデスヨ イッショニ キテクダサイ レアナ」
 クリエイタの返答に、レアナはホッとした様子でため息をついた。そんなレアナの体を右手で抱き寄せると、彼女に寄りかかるような形でバスターはよっこらせといった印象で立ち上がった。
「それじゃ行くか。艦長、ガイ、ここの作業を中途半端に抜けちまうことになってすまねえな」
「そんなことは気にするな。それよりも早く医務室に行ったほうがいいぞ、バスター」
「そうそう。事情が事情なんだし気にすんなって」
「悪りいな、それじゃ本格的に診てきてもらうわ。さ、行こうぜ、レアナ……お前には特に心配かけちまって悪かったな。けど……ありがとうな」
「……ううん。バスターこそ気にしないで。ね?」
 そう言葉を交わしあったのを最後に、バスターとレアナは一足先に医務室へと向かったクリエイタの後を追っていった。バスターの足取りはしっかりしていたが、それでもレアナは彼の体を支えるようにぴったりと寄り添っていた。
 残されたガイとテンガイはなんとはなしに顔を見合わせた。
「大事にならなくてよかったな、艦長」
「ああ、そうだな。どれ、ワシらは作業に戻るか。またエラーを吐かれては困りものだしな」
 テンガイはそう言って機関室の奥へと戻っていった。その後をガイも小走りで追いかけていった。

「カルイ ノウシントウ ダッタヨウデスネ デスガ ノウニ イジョウハ ミラレマセンシ アタマノ キズモ チイサイデスカラ モウ ダイジョウブ デショウ デスガ キブンガ ワルクナッタリシタラ スグニ イッテクダサイネ」
「よかった……よかったね、バスター」
「ああ。繰り返しになっちまうが、心配かけて悪かったな、レアナ。それにクリエイタも。ガイや艦長にも改めて礼を言っておかないとな」
 そう言ってバスターが診察用の寝台から起き上がり、医務室を出ていこうとすると、寝台のそばの椅子に座っていたレアナも慌てたように立ち上がってバスターについてきた。
「バスター、どこ行くの?」
「どこって、機関室だよ。大したケガでもなかったんだし、もうすっかり平気だしな」
「ダメだよ! 軽くたって脳しんとうだったんだよ!? まだ休んでなきゃ。艦長とガイにはあたしが言っておくから、バスターは夕食の時間まで休んでて。ね、クリエイタもそう思うでしょう?」
「おいおい、大げさだな。なあ、クリエイタ?」
 バスターとレアナが同時に振り返ってクリエイタのほうを見ると、クリエイタは少しの沈黙の後に答えを返した。
「ソウ デスネ シバラクハ ヤスンデイタホウガ イイカト ワタシモ オモイマス……」
「ほら! クリエイタもああ言ってるんだし、休んでなきゃ。自分のお部屋に行こうよ、バスター」
「な……! クリエイタ、お前まで大げさだなあ……」
 バスターがレアナに引っ張られるようにして医務室から二人が出ていくと、クリエイタは彼にしてはめずらしいことに、ため息にも似た声をもらした。
 あれはあそこで「ちょっとした作業なら休むほどでもないだろう」と本音を言えば、バスターを心底から心配するレアナの立場が不憫だと判断した末の返答だった。人間以上に人の心を思いやれるロボノイドゆえに抱えた葛藤だった。
「ヒトノ ココロトハ トキニ ムズカシイ モノデスネ……」

「バスター、気分はどう? ケガも痛くない?」
 バスターが脱いだジャケットを畳みながら、レアナはバスターの個室の片隅にしつらえられた彼自身の寝台に横になったバスターに問いかけた。
「ああ、大丈夫だ。ケガだって大したことねえんだしな。心配しすぎだよ、お前は」
「だって……バスターに何かあったら……そんなことを思ったら、あたし……あたし……」
 レアナの瞳から再び涙がこぼれ落ちたのを見て、バスターは慌てて起き上がり、傍らの椅子に座っているレアナを抱き寄せた。髪を優しく撫で、小さな子供をあやすかのようにポンポンと背中を叩きながら、バスターはレアナの耳元でささやいた。
「俺はこの通り、大丈夫なんだから。だからもう、悪い方向になんか考えるなよ、な?」
「うん……うん……」
 レアナの涙が止まったのを確認すると、バスターは微笑んでレアナを見つめた。
「それでいいんだ。いい子だな、レアナ……」
 そのままバスターは顔を近づけ、レアナの唇にそっと唇を重ねた。レアナはほんの少しだけ驚いたものの、そのまま素直にバスターのくちづけを受け入れた。バスターが唇を離すと、レアナの顔はうっすらと赤くなっていた。
「もう、バスターったら……いつでも突然なんだから……」
「悪かったって。けど、とびきりの薬をもらったから、俺はすぐに良くなるさ」
「とびきりの薬……?」
「お前の唇だよ。柔らかくて温かくて、それに……とびきり甘くて。苦いどころか極上の美味なうえに、俺のどんな病やケガにも効く特効薬とはこのことだ。これ以上の薬はねえさ」
 バスターがニヤッと笑うと、レアナの顔はますます赤くなったものの、次の瞬間、レアナはバスターに抱きついていた。そして今度は、レアナのほうから唇を重ねてきた。
「レア……ん……」
 予想もしなかったレアナの行動にバスターは驚愕したものの、自分に抱きつくレアナを振りほどこうなどとはせず、愛しいその細い体をそっと優しく抱きしめ返した。
 愛し想いあう恋人ふたりは、こじんまりとした部屋の中で、重ねた唇を通じて、ただお互いの想いを交わしあい続けていた。



あとがき


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