[二つの手に舞い降りた幸福]


 夜のとばりが訪れたといえる時刻をTETRAが迎えてしばらく経った頃、日課の筋力トレーニングを終えたバスターが自室へと戻ってくると、そこには見慣れたはずの姿が見えなかった。
「レアナ?」
 いつもならレアナの姿がベッドの上にあるはずだったが、その存在はかけらもなかった。
 バスターはとりあえずシャワーを浴びようと備え付けのシャワールームへと足を運んだ。しかし、バスターがシャワーを浴び終えてパジャマに着替えて出てきても、レアナの姿は室内にはなかった。
「どこ行ったんだ?……自分の部屋か?」
 独りごちると、バスターは隣のレアナの部屋へと足を向けた。レアナの部屋の扉をバスターがノックすると、各個室に取り付けられているインターホンから聞き慣れたのんびりとした声が返ってきた。
「はあい。だあれ?」
「俺だ。入るぞ?」
 バスターがそう言ってスライド式の扉を開けると、パジャマ姿のレアナがベッドに座っており、その腕には随分とくたびれたネコのぬいぐるみを抱えていた。
「あ、バスター。どうしたの?」
「いや……さっき俺の部屋に戻ったんだが、お前の姿が見えなかったから……何か用事でこっちに戻ってたのか?」
「あ……ごめんなさい。ちょっと着替えを取りに来たんだけど……この子達が目に入ったら、なんだか懐かしくなっちゃって……」
「気にすることはねえよ。あっちの俺の部屋で寝起きしてたって、ここだってお前の部屋なんだからな。それよりそのぬいぐるみ……随分と年季が入ってるな? お前のいちばんのお気に入りか?」
「うん。あたしがちっちゃい頃からずっと一緒で、軍の施設に入ったときも、この子を一緒に連れてきたの」
「へえ……じゃあ、この中でも最古参ってわけか」
 バスターはそう言うと部屋の中を見渡した。趣味はぬいぐるみ集めと公言しているだけあって、ベッド脇だけでなく、レアナの部屋には至る所にぬいぐるみが置かれていた。
「うん、そうなるのかな」
「しっかし……この数、いつ見ても大したもんだな。酒豪の艦長の日本酒でも焼酎でも洋酒でもなんでもござれな酒のコレクション並じゃねえのか?」
「ええ? そうかなあ?」
「負けず劣らずだと思うぜ。お、艦長って言えば、ほら、こいつなんて艦長にそっくりじゃねえか」
 バスターが笑って指差した棚には、丸々とした大きめのクマのぬいぐるみが座っていた。
 レアナは抱えていたネコのぬいぐるみをちょこんとベッドに座らせると、バスターの元へ歩み寄り、貫禄のあるクマの腹を笑いながら指でつついた。
「あはは、そうかも。この子ともだいぶ長いこと一緒なんだよ」
「じゃあ、こいつもさっきのネコには負けても年季ものってわけか。そういや、見た目が少し色褪せてるもんな」
「うん。この子達、全部小さい頃からのお友達だし。施設に入ってからのあたしの遊び相手って、この子達だけだったから」
 レアナの言葉に、バスターは彼女の幼少時代が如何なるものであったのかを想像し、無意識の内に顔をしかめていた。だが、レアナはそんなバスターの変化には気づかないまま、幼少時代の思い出を続けて語った。
「でも、あたしがこの子達を大事にしすぎて遊ぶのに夢中になっちゃって、『お勉強もせずにぬいぐるみ遊びばかりしているのなら、ぬいぐるみを全部取り上げますよ』って言われちゃったこともあるの」
 レアナは笑ってそう言ったが、その表情に一抹の寂しさが混じっていたのをバスターは見逃さなかった。
 軍の研究施設は政治的陰謀で孤児となった幼いレアナを「純粋な戦闘機パイロットの育成」という名目で実験台にしたのみならず、子供らしいわずかな楽しみさえ奪おうとしていたのかと思った瞬間、バスターは軍の施設やそこに従事していた研究者らへの怒りに駆られた。そして、同時に衝動的に、隣のレアナの腕を引き寄せてその華奢な体を両腕で抱きしめていた。
「え……? え? バスター……?」
 バスターに真正面から突然抱きしめられたことでレアナは戸惑った表情を見せたが、厳しい表情で彼女を抱きしめるバスターの様子から何かを悟ったのか、彼の顔に片手を伸ばし、その頬をそっと撫でた。
「バスター……どうしたの……?」
 バスターは厳しい顔のまま、目の前のレアナの青い瞳を捉えてじっと見つめた。
「お前は……」
「え?」
「お前は何も悪くなんてないどころか被害者だったのに、そんな遊び相手もろくにいない状況下でろくでもない研究の実験台にされていたなんて……今じゃ地球連邦軍どころか人間だって俺達だけになっちまったが、そんなこと……許せるかよ」
「バスター……」
 レアナは真面目な表情でバスターを見つめたが、ほんの少しの間を置いて、優しく穏やかに笑った。バスターに安心感を与えようとするかのように。それはまるで、いつもの大人びたバスターと子供っぽいレアナのポジションが逆転したかのようにも見えた。
「バスター……ありがとう。あたしのこと、そんなふうにいつだって大事に思ってくれて……」
「レアナ……」
「あたしね、確かにパイロットの研究の実験台だったんだと思う。そのことは、TETRAに配属されてバスター達と出会ってから初めて意識したの。でも……あたしがそれまでほとんど意識してなかったおかげなのかな。あたしは自分がそんなに不幸せだったなんて思ったことはないの……」
「そう……なのか?」
「うん……お父さんとお母さんが急にいなくなったのは悲しかったし、施設でもやっぱり寂しかったけど……施設の先生たちは悪い人じゃなかったし、それなりにあたしのこと、気にかけてくれてたと思うの……それに、元から悪い人なんていないはずだもの」
 そこまで話すと、レアナはふうと息をつき、改めてバスターの紫色の瞳を見つめた。
「それにね、このTETRAに来てから、バスター達に出会えてから、あたしは寂しいって思ったことなんて一度もないんだから……小さい頃からずっとひとりぼっちだったぶんも含めて、いま……大好きな人と……バスターとこうして幸せな時間をすごせるんだと思うの」
「レアナ……」
「あたし、TETRAのみんなに育て直してもらってるのかもね。特に……バスターに……」
 レアナが微笑んでバスターを見つめてその言葉を口にした時、バスターは無意識のうちにレアナを抱く腕に力を込めていた。レアナも目を閉じてそんなバスターに抱かれるまま、彼の体によりいっそう、自分の身をぴったりと寄せていた。
「バスター……」
「……なんだ?」
「大好き……このまま……ずっとそばにいて……」
 そう言った直後、髪を撫でられる感覚に気づいたレアナが顔をあげると、そこには慣れ親しんだバスターの自信に満ちた笑顔があった。
「もちろんだ……当たり前じゃねえか。お前を手離すなんて……そんなこと考えられねえよ」
「バスター……!」
 レアナが純粋な歓喜の声をあげると、バスターは彼女の顔を見つめ直し、その唇を自身の唇でそっと閉じた。レアナも愛しいバスターのくちづけを何も言わずに受け入れ、再び瞳を閉じていた。
 レアナの小さな唇から伝わる彼女の体温を、レアナが生きている証である熱を、己の唇に直に感じながら、バスターはレアナという唯一無二の存在が自分の腕の中にある幸福を全身で味わっていた。それはバスターのたくましい腕の中で彼を想うレアナも同じだった。
 部屋の中にわんさといるぬいぐるみの中でも、とりわけレアナがベッドに座らせたお気に入りのくたくたのネコのぬいぐるみが、寄り添い合うバスターとレアナを静かに、そして優しく見守っているかのように見えた。
 お互いに相手を心から想い合い、愛し合う二人を邪魔するものなど何もあり得なかった。



あとがき


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