[Aroma]


 ベッドから身を起こすと、バスターはベッド脇のテーブルに据え付けられた小型エアクリーナーの電源を入れた。高性能のクリーナーが音もなく作動し始めたのを確認すると、同じくテーブルの上に置いたタバコとライターに手を伸ばし、そのうちの1本に火を付けた。すうっと煙を吸いこむと、オレンジ色の光が一瞬明るく輝いた。
「……だいぶ少なくなっちまったな」
 タバコをくわえたままバスターは呟いた。それから数分の間、ひとりタバコを味わっていたが、半分ほどを吸ったところで、背後から声がかけられた。
「バスター……」
 声の主は彼の横で眠っていたレアナだった。
「ああ、悪い。起こしちまったか?」
「ううん、あやまらなくていいよ」
 起き上がったレアナは首を振って返した。その手にはブランケットの上に脱ぎ捨てられていたバスターのパジャマが握られていた。
「カゼひいちゃうよ」
 そう言って、レアナはバスターの裸出した肩にパジャマを掛けた。バスターがパジャマのズボンしか履いていなかったからだが、同時に、レアナの半ばはだけた胸とパジャマの裾から覗く剥き出しの足にバスターは気付いた。
「お前のほうこそ、そんな格好のままだと風邪引くぞ」
 言った後で、レアナの服装が乱れているのは自分のせいだったと思い返し、バスターはちょっとした罪悪感に囚われた。レアナにパジャマを着せ直したのも彼自身だったが、着せ方がおざなりすぎたとも感じていた。
「へいき」
 レアナはそう言って、バスターの背中にそっともたれかかった。
「こうしてれば、あったかいもん」
 バスターもパジャマ越しにレアナの体温を感じた。それはつい先ほどまでもすぐそばで感じていた温かさだった。
「……そうだな」
 バスターは穏やかに笑って、バスターの胸を抱くように後ろから伸びてきていた細く小さな手を優しく握った。そこにもレアナの温かさが詰まっていた。
「タバコ臭くないか?」
 チェーンスモーカーではないものの、タバコとは違法な年齢である頃からの付き合いである――もっとも、現在でもまだ19歳で喫煙が違法な未成年であることには変わらない――バスターだったが、当然ながらタバコを吸ったことなどないうえに未成年であるレアナへは人一倍配慮していた。バスターが個人的に購入したエアクリーナーの性能は空気が貴重品である宇宙船内での喫煙を許可されるほどであり、決して安くはない値段にじゅうぶんに見合うものだったが、非喫煙者にとってはそれでもタバコの臭いは強いものではないかと懸念したからだった。
「大丈夫だよ」
 レアナはバスターの背中に寄りかかったまま、目を閉じて夢見るような口調で答えた。
「バスターの匂い、あたし大好きだもの」
「タバコの臭いまじりでもか?」
「うん。それにバスターが自分で思ってるほどバスターはタバコ臭くなんてないよ」
「そうか?……まあ、手持ちには限界があるし、一年前からはそうそう自由に吸えねえから、臭いも薄れたのかもな」
「そうかもね」
 レアナはクスッと笑い、バスターも釣られて口元を緩めた。
 しばらく二人はそうやって寄り添っていたが、タバコがかなり短くなった頃、レアナはそっと両の瞳を開くと、呟くようにバスターに問うた。
「いつごろから吸ってるの?」
「?」
「タバコ」
「あ、ああ。タバコか……そうだな、もう2、3年前かな」
 くわえていたタバコを口元から離すと、バスターは記憶をたぐった。
「いっちょまえに大人びたりがった頃があってさ。その頃だ。最初は全然美味いものだなんて思えなかった。ま、今もそう美味いとは思ってねえけどな」
「おいしくないの? じゃあ、どうして吸ってるの?」
 レアナはバスターの顔を後ろから覗きこむように視線を送った。その視線を受け、タバコを指に挟んだまま、バスターは答えた。
「なかば習慣みたいになっちまったっていうか……そうだな、気分転換がてらの嗜好品ってところか」
「しこうひん?」
「紅茶やコーヒーみたいなものってことだよ」
 聞き慣れない言葉に首をかしげたレアナのほうへ顔を向け、バスターは質問を受けた教師のように意味を教えた。
「ふうん……それって、艦長がお酒を大好きなこととも同じこと?」
「そうとも言えるな。もっとも、艦長の場合は嗜好品ってレベルじゃなくて酒が燃料になってるんじゃねえかって思うけどな。それに……」
 バスターは笑ってエアクリーナーの横に置いた灰皿でタバコをもみ消した。
「艦長の酒好きと同じレベルにされちゃあ堪らねえよ。あんなペースでタバコを吸ってたら、俺は今頃、肺癌でこの世にいないかもしれねえぞ」
 そう言った瞬間、バスターの身体に回されたレアナの腕がぴくっと動いた。そしてそのまま固まったように動かなくなり、レアナも何も言わないことを不審に感じたバスターは後ろを振り返った。
「レアナ?」
「……やだ」
「え?」
「……バスターが死んじゃったりしたら、ぜったいにイヤ……!」
 絞り出すようにそう言うと、レアナはぽろぽろと涙をこぼした。バスターの背中に顔をくっつけているため、それらの涙はバスターのパジャマの染みにすぐに変わった。
 驚いたバスターはレアナの腕をそっとはずすと、身体ごとレアナのほうへ向き直った。レアナはしゃくりあげるように泣いていて、両手で必死で涙を拭っていた。
「どうしたんだよ……冗談に決まってるだろ?」
「でも……」
 懸命に涙を拭いながら、レアナはなんとか口を開いた。
「一年前、あんなに簡単にたくさんの人が死んじゃったじゃない。だから……「死ぬ」って言葉が怖くてたまらないの。もし、またあんなことが起こって……ううん、たとえそんなんじゃない事故か病気かでも、ガイや、艦長や、クリエイタが……それでバスターも死んじゃったら……あたしは……」
 そこまでを口にしたもののレアナはまた泣き出してしまった。バスターは何も言えずにいたが、レアナの肩に手を置いた。
「……悪かった。ちょっとデリカシーがなかったな、俺」
 バスターはそれだけを言うと、もう片方の手の指でレアナの目じりの涙を拭ってやった。やがてレアナの涙は止まり、落ち着きを取り戻したように見えた。
「ううん……ごめんなさい。あたしこそ、変なこと言って勝手に泣いちゃったよね……」
 自分の顔に触れているバスターの手を両手で握り、レアナは俯いたまま言葉をこぼした。
「いや、お前のせいじゃねえよ。ただ……」
「……なに?」
「お前、地球に降りたら一年前みたいなことが起きるんじゃないか怖いって前に言ってたよな。あんなことが起きたんだから、そんな簡単に安心出来ないってのは分かる。実際、何が待ち受けているのか分からないし、その前にこの船内でだって事故や病気でやられる可能性はゼロじゃないんだからな」
 バスターはそこで一呼吸を置き、言葉を続けた。
「けど……あの時も言ったけど、俺はちゃんとここにいてピンピンしてる。もちろん、ガイも、艦長も、クリエイタもだ」
 レアナは黙って、だが自分を見つめるバスターの目をしっかりと見つめ返して彼の言葉を聞いていた。
「少なくとも俺は……いきなりお前を置いていったりしねえよ。約束する。絶対にだ」
「バスター……!」
 レアナはバスターの裸の胸に飛びこむように抱きついた。バスターの肩からかかっていたパジャマが後ろに落ちたが、バスターは気にせず、レアナの身体に優しく腕を回した。
「ごめんなさい……! バスターはあたしのことをいつも心配してくれてるのに……! あのときも、いまだって……」
「だからもう謝るなって。お前は悪くないんだからさ」
 バスターはレアナの髪を撫で、彼女を抱く腕に力を込めた。ほのかな髪の香りが、いや、それだけではないレアナの匂いが、バスターの鼻腔をくすぐった。その匂いは花のようにふわりと甘く、どこか懐かしいものだった。
「……いい匂いだな。俺のタバコの臭いも、どっか行っちまいそうだ」
 そのままバスターはレアナの髪に顔をうずめた。甘い香りはより強くなった。
「バスターの匂いも……あたし、大好きだよ」
「レアナ……」
 二人はそのまま、強く抱き合っていた。二つの匂いも一つに溶け合うのではと感じられるほどだった。



あとがき


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