[譲れないもの]


 夕暮れが押し迫った頃。連邦軍基地内の廊下を歩いていたレアナは、交差路に差し掛かったとき、聞き覚えのある声を耳にした。
(バスター?)
 誰なのかはすぐに気付いたが、レアナは廊下を曲がらず、足を止めた。名前を呼ぶこともそばに駆け寄ることもしなかったのは、その声がひどく不機嫌なものだったからだった。
(……どうしたんだろう)
 レアナがそっと首を伸ばすと、見慣れた赤い髪の後ろ姿と、彼女には見覚えのない、おそらくバスターと同年代であろう男性士官の姿が見えた。
「……もう一度言ってみろ」
 バスターの声は明らかにいらだっていた。対して、返答した青年士官の声はいたって冷静だった。
「言っただろう。しょせん実験体は実験体だって。わざわざ忠告してやっているのに」
「レアナをそんなふうに呼ぶな」
 いきなり自分の名を呼ばれたレアナはびくりと体を震わせた。握った手のひらには冷たい汗をかいていた。
「そんなことを言ったって、『純粋なパイロットの実験体』だってことには変わりないだろう」
「だからやめろって言ってるだろう! レアナだって一人の人間だ」
 バスターの怒りに満ちた返答に、青年士官は皮肉っぽく、ひとりごちるように言葉を吐いた。
「……なるほど。お前がそんな態度でそんなこと言うなんてな。士官学校時代が嘘みたいだ。信じ難かったがが、あの噂は本当だったんだな」
「噂?」
「シルバーガンのテストパイロット同士のお前と実験体、ああ、レアナと言ったか……そんな目でにらむな。そのお前ら二人が仲が良すぎる。ひょっとして出来てるんじゃないかってな」
「……だからどうした」
「否定しないのか?」
「……つまらねえ噂だな」
「そう、つまらん噂だ。だが、そのつまらない噂のせいで、お前の処遇にケチがつくかもしれないんだぞ」
 バスターは黙ったままだった。青年士官は更に追い打ちをかけた。
「悪いことは言わない。自重しておけ。士官と実験体とが疑われる仲になったって、何の得にもならないばかりか、お前の出世に支障が出て、ただ損するだけだぞ」
 それだけ言い捨てると、青年士官は踵を返して去っていった。後に残された形となったバスターはしばらくの間、佇んだままだったが、唇を噛んで呟いた。
「……俺が誰をどう思おうと俺の勝手だろうが」
 相変わらず不機嫌な口調だったが、どこか寂しげでもあった。
 そのバスターの背中を不意に引っ張る者がいた。急なことに驚いたバスターが振り返ると、そこには他の誰でもない、いたたまれず姿を現したレアナがいた。右手でバスターの制服の裾を引っ張り、左手で涙を必死に拭うその姿には、痛々しいものがあった。
「レアナ!? まさか……聞いていたのか!?」
 これ以上ないというほど驚いたバスターに対し、レアナは泣きながら、こくりと頷いた。
「バスター……ごめんなさい」
「どうしてお前が謝るんだよ?」
 レアナは顔を上げると、涙をこぼしながら続けた。
「あたしのせいでケンカになっちゃって……」
「お前のせいなんかじゃない!」
 バスターは思わず声を張り上げ、その声にレアナは足をすくめた。
「悪りい、大声出しちまって……けど、お前は何も悪くない。お前のせいじゃないんだ」
「でも……」
「嘘じゃない。あんなの忠告でもなんでもない、奴の余計なお節介だ」
 そう言ってバスターは真剣な表情で、レアナの肩を抱いた。
「だってそうだろう? 何があってもお前はお前自身なんだし、俺がお前と仲良くすることの何がいけないんだ? 俺が誰をどう思おうと俺の勝手だろう?」
 先ほど呟いた言葉を、バスターはもう一度繰り返した。今度はレアナに向かって、力強く。
 レアナはあふれる涙を懸命に拭った。見知らぬ他者に自分が軍の実験体だと特別視され蔑まされた悲しさもあるにはあったが、それ以上にバスターの言葉がレアナにはずっと嬉しかった。
「バスター……大好き」
「え?」
 突然の意図していなかったレアナの言葉に、バスターはどきりとした。笑って涙を拭いながら、レアナは続けた。
「ガイも艦長もクリエイタもみんな好きだけど、その中でバスターがいちばん大好き。ほんとうだよ?」
「そ、そうか」
 レアナの言う「好き」が自分の思う「好き」と同質なのかどうか推しはかねて多少戸惑ったものの、自分をいちばん好きだとレアナが言ってくれたことも、笑顔を見せてくれたことも、バスターにとっては素直に嬉しいことだった。
「もうこんな時間か。夕飯、まだだろう? 食べに行こうぜ」
「うん!」
 ようやく涙が止まったレアナはバスターの制服から手を離すと元気よく返事をして、彼の腕に手を絡めた。笑顔を取り戻したレアナのその様はごく自然で微笑ましく、この少女と引き換えにしてまで得るものに意味など何もない、あってたまるものか――エリート街道を歩み出世第一を考えていた合理主義者であるはずの自分の中に、レアナと出会ってからいつの間にか湧き出ていたそんな感情を、バスターは改めて強く噛みしめていた。



あとがき


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