[記憶の残り香]


「バスター、いる?」
 レアナはバスターの自室の扉越しに声をかけだが、返事はなかった。
(いないのかな……)
 そう思ったレアナが特に深く考えずに扉の開閉スイッチを押すと、ドアはあっさり開いた。
(あれ? あいてる……じゃあすぐにもどってくるのかなあ?)
 レアナはバスターの部屋には何度も入っているので、彼の部屋に立ち入るのは、別にこれが初めてではない。整理されたライティングデスク、きちんとメーキングされた小さなサイドテーブル付のシングルベッド、バスター個人の所有物である小型電気ポット、そして喫煙者の彼には必需品である高性能エアクリーナー。バスターの部屋に入るたびに目にする馴染んだ光景だった。
「どうしようかな、これ……」
 レアナは何かを抱きかかえたままつぶやいたが、他にすべき業務も今はないし、結局、部屋の主の帰還を待つことにした。
 手に抱えていたものをデスクの上にいったん置き、椅子にでも腰掛けようかとしたとき、レアナはベッドの上にバスターのパイロットスーツのジャケットが無造作に投げられていることに気付いた。レアナが何気なくそのジャケットを手に取ると、彼女が慣れ親しんだバスターの匂いが、嗅覚をかすめた。
(バスターの匂いだ……)
 そのまましばらくレアナはジャケットを抱きしめていたが、ふと思いついたように、バスターのジャケットに腕を通してみた。レアナももちろんアンダーウェアに加えて彼女のジャケットを着ていたが、当然のことながら男性で鍛えられた軍人でもあるバスターの体格は彼女よりも一回り、いや、二回りは大きかったので、十分に余裕さえ持ってバスターのジャケットを着ることが出来た。
 暖かく安らぐ匂いに包まれたまま、レアナはいつしかベッドに身を委ねて、目を閉じていた。それはついこの前、レアナが足を滑らせて転落しかけた際、バスターにかばわれ抱きかかえられたときに感じた彼の匂いと同じだった。あのとき自分はバスターの屈強な両腕に守られたのだと思うと、嬉しい想いと同時に、軽傷とはいえ彼にケガを負わせてしまった事実が申し訳なく、辛かった。
『お前がそんな顔をしてまで謝ることなんてないさ』
 それでもバスターはそう言って笑って、あの些細だけれども大胆な行為で「貸し借り無し」にしてくれて、全て許してくれた。いや、許すも何も、元よりバスターはレアナを助けた時点で彼女を責めようなどとはまるで思っていなかったし、彼のそんな隠れた優しさが伝わってきたからこそ、レアナもあの一件での自己嫌悪から立ち直ることが出来たのだ。
(やっぱりバスターはあたしより大きくて大人なんだ……体も……心も……)

「レアナ?」
 どれくらいの時間が経ったのかはわからなかったが、自分の名前を呼ぶ声にレアナは目を覚まし、慌てて身を起こした。声をかけたのは他の誰でもない、バスターだった。
「あ、あの、あのね、バスター、えと、その」
「落ち着けって」
「ごめんなさい、勝手にベッドでねむっちゃって……あ! このジャケットも……! ごめんなさ……」
「そんなこと、謝らなくたっていいって。まったくお前は」
 バスターは笑って彼女の頭に手をやり、優しく撫でた。
「それより、俺になにか用事があったのか?」
 バスターの言葉に、レアナは自分がこの部屋に来た理由を思い出した。
「あ、そうだった……『特配』を届けにきたの」
「特配?」
「机の上にのってるでしょお? それのこと」
 レアナの言葉を受けたバスターが指示されたほうを見ると、赤い果物が二つ、目に入った。
「地球に降りての補充が出来なくなったときから、食料のストックはきっちり数えて管理されているはずだろう? 何か特別な日って訳でもないし……どうしたんだ、いったい」
「うっかりチェックミスがあって見つかったってクリエイタが言ってたよ。それで艦長がね、予想外のせっかくの新鮮な果物だしって、特配になったの。ぜんぶで8こあったから、バスターにガイに艦長、それにあたしの4人で、みんなで2こづつね」
 バスターは果実をひとつ、手に取った。厳重密封されていたおかげで収穫したてのようにみずみずしいのだろう。小ぶりだが色も形も整ったリンゴだった。
「そうか。タナボタってのはこういうことを指すんだろうな」
 バスターは手にしたリンゴの一つを大きく口を開けてシャリッとかじった。久しく味わっていなかった新鮮な食感が口内に広がった。
「タナボタってなに? タナバタとはなにか関係あるの?」
 リンゴを味わうバスターの隣でベッドに座ったまま、レアナが小首をかしげた。
「語感は似ているけど全然違うものさ。タナボタってのは思いがけず幸運が飛び込んでくるって意味だよ」
「そうなんだ。たしかにこのリンゴはそうだよね。ずっと加工された保存食ばかりだったし。仕方ないことなんだけど」
「俺にとっては、リンゴの他にももう一つタナボタがあったけどな」
「え?……きゃっ」
 空いているほうの腕でバスターはレアナを抱き寄せ彼女の細い髪を指で梳いた。
「お前のああいう格好が見られたってこと」
 無防備にバスターのベッドで眠ってしまっていた姿を見られたことを指摘され、レアナはみるみるうちに赤面した。更に未だにバスターのジャケットを着たままだったという事実にも気づき、リンゴ以上に真っ赤になっていた。
「や、やだ、もう。バスターってば、またからかって……」
「からかってなんかいないぜ」
 レアナが顔をあげると、口元こそ笑ってはいたが、視線は真剣なバスターの表情がそこにはあった。片手に持っていたリンゴをテーブルに置くと、バスターは両腕でレアナを抱き、押し倒すようにベッドに横になった。
「……あったかいな」
「バ、バ、バスター……」
「安心しろよ。これ以上のことをしたりしねえさ。いくら知恵の実を食ったからって、よこしまな知恵はついてないぜ」
「……知恵の実?」
「リンゴにはそういう俗説があるんだってよ。それに……」
 バスターは体を起こし、レアナを見下ろした。
「こんな真っ昼間から不埒なことをしたりしねえよ、俺は」
「じゃ、じゃあ、ひ、昼間じゃ……なかった……ら……?」
 しどろもどろなままのレアナに、バスターはニッと笑った。
「不届きなことをしちまったかもな」
「バ、バスターってば……『これ以上』ってなにする気だったの! 今だって、じゅうぶんエッチなことしてるじゃない! 胸のケガだってなおったばかりでしょう!? もう!」
 レアナは上半身を起こすと真っ赤な顔のままでまくしたて、そっぽを向いてしまった。だがそんな表情も仕草も、バスターにはあどけなくもいとおしいものだった。
「まあ、お前に今こんなことしてる時点で、このリンゴは特にタチの悪い悪知恵の実だったのかもしれねえな」
 バスターは笑ってレアナを抱き寄せ直した。レアナも顔こそまだ赤かったが、バスターの一連の言動にはもう怒りを示しておらず、自分を抱きしめるバスターの腕に手を添え、指を絡めていた。

 二人がお互いの匂いと体温とを密に繋ぎ止めて感じあっている横で、ベッドサイドのテーブルの上には、一口かじりとられたリンゴがひとつ、さわやかな香りを醸して転がっていた。



あとがき


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