[その二つの手が届くかぎり]


「レアナ? おい、レアナ?」
 体を軽く揺さぶられる感覚に、レアナははっと目を覚ました。顔を上げると、そこは見慣れたTETRAの食堂。手元には読みかけの本と冷めたココアが残ったマグカップ。そして横を見ると、バスターが立っていた。
「え?……バスター?」
「こんなところで寝てるなよ。いくら艦内は適温でも、風邪引くぞ」
 そういえば、とレアナはぼんやりと思い出した。自分はいつものように夕食を摂ったあと、本を持ってきて、ここで読んでいたのだ。温かいココアを入れたついでもあったが、自室よりもなんとなく人の気配というか暖かさの残るこの食堂に未練めいたものがあって。それがいつの間にか、うとうとして寝込んでしまい、今に至ったのだった。
「あ……やだ、あたしったら……」
「まったく、子供みてえだな」
「あたしは子どもじゃないもん。バスターとだって、いっこしか違わないんだから」
 バスターの言葉が冗談半分だということは分かっていたが、レアナは思わずぷうっと頬を膨らませて反論した。そういった部分がまた子どもっぽいのだが、レアナ自身は気付いていなかった。バスターは笑いながら、座ったままの彼女の頭に手を置き、からかうように撫でた。
「まあ、そりゃ確かだけどな。そんなことより、もう遅いんだから、ちゃんとベッドで寝ろよ」
「もうそんな時間なの?」
「ほら、見てみろよ」
 バスターが親指を立てて示した食堂の入り口近くの壁に備え付けられたデジタル時計にレアナが目をやると、確かにもう就寝時刻と言っていい時間だった。
「ほんとだ。早くかたづけなきゃ」
 レアナは少し慌てて、手近のマグカップを持ち上げた。そのまま口に運ぼうとしたとき、バスターが言葉を挟んだ。
「おいおい、そんな冷えたココア、飲まなくたっていいだろ?」
「だめ。もったいないもん」
 そう言ってバスターの制止を聞き流すと、マグカップの底に残っていた冷たいココアを飲み干した。西暦2520年7月14日以降、衛星軌道上での待機を余儀なくされているTETRA内では厳重管理下にある食料の中で、コーヒーや茶といった嗜好品は、度を越さないという制限つきで自由に飲める貴重なものであった。だからレアナは冷え切ったココアでも捨てられなかったのだが、幸いと言っていいのか、残っていたのは少量だったので、体が冷えるようなことはなかったけれど。そんなレアナの様子を見て、バスターはふうとため息をついた。
「お前はいつも律儀だなあ……」
「だって、だいじな飲み物じゃない。食べ物はだいじにしなさいって、バスターだって教わったでしょ?」
「はいはい。わかったわかった」
「もう、まじめに聞いてるの?」
 飄々とした態度のバスターにレアナは少しばかりムキになった。もっとも、こんな光景は、二人がTETRA配属になって出会ってから、何度も繰り返して見られているものだった。レアナもバスターのそんな態度には無意識で慣れていたので、すぐに機嫌を直すと、空のマグカップを洗いに行こうと立ち上がった。そのまま調理室に向かうと、後ろからバスターがついて来た。
「バスターも何か用があるの?」
「用があるから、ここに来たんだろう? 俺はコーヒーを飲もうと思ってな」
「コーヒーなんて飲んだら、寝れなくなるよお?」
「俺は飲み慣れてるから平気さ」
 二人はそんなことを言いながら、隣接する調理室に入った。レアナがマグカップを洗う傍らで、バスターはコーヒーメーカーを作動させた。レアナが食器乾燥機のスイッチを入れ、濡れた手を拭きながら振り返ると、ちょうど淹れたてのコーヒーを持ったバスターがいた。
「コーヒー、できたんだね」
「ああ。お前も片付けは済んだんだろ? さ、行こうぜ」
 バスターは空いた片手をすっと差し出し、水滴を拭ったばかりのレアナの片手を取った。冷えたレアナの手には、バスターの手はいつもより温かく感じられた。

 食堂からクルーの自室のある区画へ移動する間、二人は特にお喋りもせずに歩いたが、手はつないだままだった。考えてみれば年頃のハイティーンの男女が手をつなぐというのも、「子どもっぽい」行為なのかもしれなかったが、バスターとレアナにとっては、いつからか自然な行為になっていた。
 レアナは実年齢に精神年齢が達していないうえに純真で人なつこい性格だったから、出会った当初から、バスターやガイ、クリエイタ、それにテンガイの手でも何も気にせずに触っていた。それに対し、祖父と孫ほども歳の離れたテンガイや、ロボノイドであるクリエイタはともかく、ほとんど同年齢のバスターやガイは、最初の頃は面食らっていた。だが、レアナの性格を理解するにつれ、特に気にしなくなった。それでもやはり照れくさかったのか、彼らのほうからレアナに手を差し出すということはなかった。
 けれど今では、先のようにバスターのほうからレアナの手を握ることは不自然なことではなくなっていた。それは二人が親密な間柄になっていたことを意味していた。バスターとレアナが色々な出来事を経て、今ではお互いに好意を抱いていることは、傍から見ても明らかだった。
 天真爛漫さゆえに無頓着な一面のあるレアナだったが、バスターのほうから手を握ってくれることは、彼女から手を差し出すよりも嬉しかった。そこに特別な想いが介在するだけで、こんなにも手だけでなく心まで温かくなるという不思議なことは、レアナにとって初めて味わう体験であり、実はバスターも同様だった。だからこそ、多少の照れが残りながらも、彼のほうからレアナの手を取るようになっていたのだが。
「あったかいね……」
 レアナは手のひらにバスターの体温を感じながら、小さな声で呟いた。何気ない一言だったが、それだけでレアナの想いはバスターに伝わっていた。バスターは少しばかり頬を赤らめながらも、黙ってレアナの手を握る自分の手に力を込めた。

 隣り合わせにあるそれぞれの自室の前に着くと、バスターはそっとレアナの手を離した。
「じゃあな。早く寝ろよ」
「バスターもね。おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
 そう言葉を交わすと、二人はそれぞれの自室へ入っていった。レアナは扉を閉めると、バスターに握られていた右手に視線を下ろした。左手で触ると、彼の大きな手で握られていたためだろうか、右手のほうが温かく感じられた。
「あ、本……忘れてきちゃった……」
 不意にレアナは忘れ物を思い出したが、すぐにかぶりを振って思い直した。明日、朝食のときに持ってくればいい。朝食の支度にやって来るクリエイタも、クルーの私物と分かるものをぞんざいなどには扱わないだろうから。一人で人気のない通路を戻って忘れ物を取りに行くのは、今のレアナには何か寂しい気がして、ためらわれたからだった。だから明日の朝、ガイ、テンガイ、クリエイタ、そしてバスターがいるときに行こうと思ったのだ。

 明日――そう、生きる時間がある限り、明日は常に人の上へとやって来る。その間に、また何度もバスターとレアナの手は体温を分かち合うのだろう。互いの想いゆえに。レアナの言葉で言えば「あったかいもの」を共に感じていたいから――。



あとがき


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