"最後の記憶"



 EDではある謎が浮かびます。それは「再生されたバスターとレアナのクローンの人格・記憶はどうなっているのか?」というものです。

 普通に考えれば、オリジナルとクローンは遺伝子が同じというだけで、完全に記憶まで一致する同一人物ではありません。EDで目覚めた2人のクローンも、オリジナルとは容姿が等しいだけの全くの別人ということになります。TETRAや最後の日の戦いのことは何も知らない、異なる別の存在。

 ただ、同一人物ではないにしろ、EDのあの2人は単に姿だけをコピーしたクローンではないと思いたいのです。例えば人格。あの状況では、バスターとレアナが各々持っていた個人的な過去の記憶の再生までは多分に無理だったでしょう…(恐らく(体細胞の一部にすぎない)髪の毛しか得ることは出来なかったでしょうから)。…けれど、せめてそれぞれの性格だけでも、クリエイタはクローンに与えていたのではないのでしょうか。目覚めたクローンが生きていくためには、生存に必要最低限の知識(もちろんこの中には、人類が何度も巡り合ってしまった悲劇や「石のような物体」に関する知識は入れなかったでしょう。それはどんなに時間がかかっても、人類がいつか自分自身の力で気づかなければいけないことなのですから)以外にも、年齢に応じた何らかの人格を持っている必要があります。その際、クローンの人格をオリジナルの2人のそれと全く別のものに、クリエイタがわざわざ変えるとは考えにくいことだと思うのです。クリエイタはオリジナルの2人のことをよく知っていたでしょうし、何よりも、共に過ごした思い出を持つ大事な仲間なのですから。

 …もっと突き詰めて私個人の本音を言ってしまうと、EDの2人は「クローンという形を借りた生まれ変わり」なんじゃないかとさえ考えています(もちろんそうだと仮定しても、個人的な記憶まで完全に受け継ぐことは無理だとは思いますけども)。いきなり突拍子もない意見だということはわかっていますが、私がそう思ってしまうのには、大きく2つの理由があります。ひとつは、シルバーガンの物語は『火の鳥』に大きく影響を受けていると、プロデューサー・井内ひろしさんも言及されておられること。もうひとつは、クリエイタが「紀元前のロボノイド」として発見された時の状態のことです。

 サターン版シルバーガンの取扱説明書冒頭に載せられた、ストーリー背景を示す「五十嵐長官の私用メモ」。そこには、10万年前の地層から物語の発端となった「石のような物体」や「ロボノイドの残骸」が発掘され、調査されている状況などが記されています。ストーリーの結末を知った後でこのメモを見返していたとき、ひとつ気になることがありました。それは「ロボノイドは丁重に保存されていたらしく、紀元前のものとは思えないほど状態がいいとのこと」という記述です。

 ボロボロになって動かなくなり、そのまま崩れ落ちて機能停止したクリエイタ。そのまま放置された状態なら、10万年もその形と記憶を保てなかったであろう彼の亡骸を、「丁重に保存」したのは誰か?…おそらく目覚めたバスターとレアナのクローンだと考えるのが自然でしょう。

 もはや動くことのない、酷な表現をすれば、「残骸」となってしまった彼を、何故2人は ―単なるクローンとすれば、クリエイタと共有した思い出を何一つ持たないはずの彼らが― 大切に取り扱ったのでしょう?…それは、オリジナルの記憶そのものは存在していなくても、クリエイタの姿に対して何らかの想いを抱いたからではないでしょうか。そう感じたのは、バスターとレアナの根源的な何か…いわば魂のようなものは受け継がれていたからなんじゃないか…都合のいい考え方かもしれませんが、どうしてもそう考えてしまうのです。

 …いろいろと述べてきましたが、結局、「最初の2人」が「最後の2人」からどれだけのことを継いだのか、ましてや生まれ変わりなのかどうか、それらについてははっきりとした確証はありませんし、結局は推測することしか出来ないことなのかもしれません。けれど…これだけは信じたいことがあります。それは…クリエイタが2人に託した思い、少なくともそれだけは確かに伝わったはずだ…ということです…。



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